No.7 TGとジェンダーフリー
ジェンダーフリーを肯定していくことは、ひょっとしたらトランスジェンダー指向と矛盾することになるのではないかという、何か喉に小骨がささったようなもどかしさを感じていました。
トランスジェンダーの人たちの世界では、「ジェンダーフリー」という概念は、実はあまり評判がいいものではなく、逆に、「男と女はちがうのだ、『男らしさ』『女らしさ』というはっきりした区別があり、トランスとは、一方から他方へと越境することだ」と、はっきりと主張する見解にも、けっこう、かなりの支持があるという現実もありました。
ジェンダーフリーを主張するのは、ある意味では「肩身が狭い」ところさえあったわけです。
ジェンダーフリーの主張は、もっぱらフェミニズムの立場の占有領域ではないかとも思わせられる部分さえあり、そうなると、両方の性役割を経験するというトランスジェンダーの「貴重な経験」は、ジェンダーフリーという世の流れのなかで、何も生かせるところがないではないかとのジレンマにも陥ることにもなります。
自分自身、ジェンダーフリーとトランスジェンダーとの関係をどのように考えたらよいのか、いろいろと思索してきました。そういったときに、たまたま見つけたのが佐倉智美さんの小論でした。私の頭の中でモヤモヤと渦巻いていたこの両者の関係を、実にすっきりと、しかもホンネの部分を吐露しながらのこの一文は、私の頭の中を整理するのにとてもプラスになりました。
とくに、次のところ、
などの「ホンネ」の吐露は、私ともピタリと一致するものでした。
「女になりたい」気持ち。これはたしかに自分の中にあるのだが、これはある程度の“男らしさ・女らしさ”の枠組みがあった上での、その“女らしい”ほうに所属したい、そういう気持ちである。
そういう意味では、“男らしさ・女らしさ”の消滅した完全なジェンダー・フリー社会が来ては困るというのも、私としては、あながち偽った気持ちではない。
しかしその一方で、
という、フェミニズム的な視点をもちゃんと認識していて、「らしさ」が固定化される社会に安住することからは離脱しています。
しかし一方で、今まで女性の心で男性社会を生きてきて、そして今回こうして属するジェンダーを転換してきた中で、こうした「らしさ」に基づく性別役割のオカシさ、非合理さなどが、いっそうはっきり見えてきて、それらを改めたいと強く願っているのもたしかである。
こういったスタンスであれば、それは十分にフェミニズムの人たちからのジェンダーフリーの提示にも共同できることになります。ジェンダーフリーとトランスジェンダーが敵対しあわなくてもよい道筋が開かれるわけです。MTFTG(女性へのトランスジェンダー)とフェミニストに共通の土俵が設定できることになります。ということで、佐倉智美さんの小論は、トランス界にも大きな貢献をすることになると考えています。以下、その小論を紹介いたします。
また、佐倉智美さんは、「性同一性障害はオモシロイ/現代書館 本体価格2000円」という著書を出されています。こちらの方も読んでみて下さい。佐倉さんのホームページへは、次の行をクリックして下さい。
ジェンダーフリーということ
「女になりたい」
…幼いころから、しばしば意識の上に頭をもたげては、その度に、自分は男なのだからもっと男らしくしなければと思い、打ち消されてきた欲求であった。
長い葛藤の末、ようやく“自分の正しい性別”で生きることに気付き、化粧をし、女物の服を着て、そうして少しずつ、街の中へ、人の輪の中へと歩み始めた今、その願いは叶いつつあると言ってもよいのかもしれない。
たとえ、さまざまな壁があるにしても…。
しかし、そもそも「女になりたい」とは、はたしてどういうことなのだろうか。
そこには、案外気付かれていない、輻輳した意味が含まれているように、最近思うようになった。
ひとつには、『女性のほうに属したい』欲求だという考え方がある。
つまり周りから、“このヒトは女性なんだ”と認識してもらい、女性として接し、扱ってほしいということである。
これは、学校や職場で感じてきた自分と社会との不調和が、自分が男として扱われることに起因すると気付いたとき、強く願ったことでもある。“コイツは男だ”と思われ、男の仲間として行動することを期待され続けるかぎり、多くの望まぬ、ないしは不得手なことにも付き合わされざるを得ないが、それは最終的には、それに耐えられない自分と周囲の軋轢となってしまう。
女に生まれてさえいれば、望む扱われ方ができたのに…。幾度となく、そんな煩悶にさいなまれた。そうして、長い葛藤の末、女性として生きる道を選ぶことになるのである。
これは、自分で言うのは僭越ではあるが、生まれついた性別の制約を乗り越え、本当の自分らしい生き方を選択する、積極的な行為だと評価することができる。この際、化粧をしたり女物の服を着ることは、周囲に対し、“このヒトは女性ですよ”ということをアピールする手段となっている。
いわば、目の不自由な人の杖の白い色、あるいは免許取りたての人がクルマに貼る初心者マークのようなものだ。
しかし別の考え方もある。
「女になりたい」には、『女性のすることを自分もしてみたい』という意味合いも、多分に含まれているのではないだろうか。
その場合は化粧も女物の服も、それ自体が「してみたいこと」であり、それそのものが目的ということになる。他にも、女の子どうしでする楽しいおしゃべり、グルメやカラオケ、ショッピング…。
『女性のすること』を、このようにまとめてしまうのには、私としても異論があるのだが、とりあえず説明の便宜上、ご容赦いただきたい。
ともかく、こうしたことをおこなうことが願望としてあり、実行できることが幸せなのである。
かわいいグッズがたくさん並べてある雑貨店などで、商品を手に取ったりするとき、あぁ女の子になれてよかったと、しみじみ思うものだ。
だがよく考えてみよう。これらはべつに、女にならなくてもかまわないはずだ。男のままでも、しようと思えばできる。
「こういうことをするのは女の人で、これらは女らしいコト」
「そんなことを男の人がするなんて、“男らしくない”」
そういう社会の思い込みの圧力が、妨げとなっているだけなのだ。
こうした「らしさ」は、じつは社会のさまざまな場面に巣くっていて、学校や職場・家庭などでの男女のあり方に、様々な枠をはめている。そうして、男女双方に「らしく」しなければという空気を送り、多くの男女に生活の上での息苦しさを発生させている。
本来、何がしたいか、どういうふうに生きたいかは、誰であれ、その個人の好みや適性によって決まるべきである。
だから、女性として行動するという目的のために、ことさらに女の子にバッチリ変身するのは、ある意味では、そういう世間一般の「お約束」に負けて、現実から逃避しているのだと言うこともできなくはない。
男のままでもいいではないか。堂々と、自分はこういうふうにしたいのだと、女性の好み・生き方をつらぬけばよい。それが認められる社会ならば、問題はいちじるしく軽減される。
“女らしいこと”を、男性がはばからずすることができ、“男らしいこと”を女性がおこなって咎められることがない。そういう世の中こそが、まさに「らしさ」のしがらみから自由な、ジェンダーフリー社会だと言える。
いや、だいいちそれなら“男らしさ・女らしさ”という言葉自体、意味を持たなくなるはずだ。そうなっていけばいいなと、むろん私は思う。だが、ここで矛盾が発生する。
先に述べた『女性のほうに属したい』欲求としての、「女になりたい」気持ち。これはたしかに自分の中にあるのだが、これはある程度の“男らしさ・女らしさ”の枠組みがあった上での、その“女らしい”ほうに所属したい、そういう気持ちである。
そういう意味では、“男らしさ・女らしさ”の消滅した完全なジェンダーフリー社会が来ては困るというのも、私としては、あながち偽った気持ちではない。
しかし一方で、今まで女性の心で男性社会を生きてきて、そして今回こうして属するジェンダーを転換してきた中で、こうした「らしさ」に基づく性別役割のオカシさ、非合理さなどが、いっそうはっきり見えてきて、それらを改めたいと強く願っているのもたしかである。
これはどうしたことだろうか。
…ボーボワールの有名な言葉がある。
「人は女に生まれない、女になるのだ」
もちろんこの“女”を“男”に書き換えても、事情は同じである。
性別は通常、生まれたときの外性器の形状がハッキリしているかぎり、それをもって判定されている。だが人間の男女が持つ、社会的・文化的な性別による差異は、必ずしもそれによらない。どのような環境で成長するか、どのような期待を受けて育つかに、大きく影響される。
男の子は男らしく育つようにと、周囲から望まれ、彼はその周囲の期待を意識・無意識に、有形・無形に取り入れ、内面化して育つ。女の子もまた、女らしくなるようにという周囲の願いを感じ取り、彼女はそれに合わせた自我形成をおこなっていく。
これを専門用語では、『ピランデッロ効果』というらしい。
男の子が元気で活発なのも、女の子がやさしくおしとやかなのも、このためであると言っても過言ではない。
男の子がプロレスごっこをし、女の子がお人形遊びをしているほうが、逆であるよりも、親が安心し、喜ぶことを、子どもは敏感に察知しているのだ。
同様に男性が料理ができなくなるのも、女性が電気関係に弱くなるのも、性別による資質の差ではなく、そうした社会的な要因の積み重なりの結果だと言ってよい。
男性が会社で働き女性が主婦となるのが「普通」になってしまっているのもまた、然りである。
こうして男らしい男と女らしい女が、作られていくのである。
しかし、待てよ、とも思う。
それなら、誰であれ、男として育てられれば男らしくなり、女として育てられれば女らしくなるのだろうか。実際には、おとなしい性質の男の子もおれば、おてんばと呼ばれる女の子もいる。
本当にプロレスは専ら男性しか興味を持たないのなら、女子プロレスなどは世の中にないはずだし、逆にレスラーやテレビヒーローの人形で男の子が遊ぶのは、同じ人形でもリカちゃんでは遊べない彼らの代償行為かもしれない。
そもそも、男らしく、ないしは女らしくせよと言われて、誰もがそれに合わせられるのなら、性同一性障害などという症候は、存在しないことになる。やはり、個人個人の、男らしくするための資質・女らしくするための才能、といったものがあるのだろう。
一般に、胎児期のホルモン分泌のはたらきで、脳の構造が男女で異なったものになるために、性別による性質の違いが生じると言われている。そのためたいていは、身体的に男性である人には男らしくするための資質・才能が備わり、女性なら女らしくするほうの資質・才能を身に付けていることのほうが大多数なので、それが標準、普通、もっと言えば当たり前だと思われているわけだ。
もちろん、個人差があったり、例外、つまり身体的には男性でも女らしくするほうがよいというような人も、数多くいることを忘れてはならない。
同時に、そうやって人々全般を縛っている“男らしさ・女らしさ”の中には、あくまでも社会的・文化的に作られたものに過ぎず、合理的な根拠のない、差別的なものがあることを意識し、改めていくための社会的なとりくみも重要ということになる。
結局、『ジェンダー・フリー』には、ふたつの意味があるのではないだろうか。
ひとつは、男から女へ、女から男へ、誰もが自分の心の性別に応じて、ジェンダー、つまり社会的・文化的性別を転換することが、ごく自然なこととして、世間から認められること。もちろん“性転換”とまでいかなくても、行動・趣味・交友関係・考え方などの面での、ちょっとした越境も含んでよい。
もうひとつは、ひとりひとりの人間を過剰な“男らしさ・女らしさ”に基づく性役割から解放し、それに縛られていた旧来の男女関係を見直し、よりよい男女のパートナーシップを新しく構築することである。これは、現在お役所レベルで推進されつつある『男女共同参画社会』づくりの中心テーマともつながるものだ。
この両者の折り合いをつけながら、両方の実現を図っていく。おそらくそれが、めざすべきジェンダーフリー社会への道だろう。
とにもかくにも、単純な男女二分法では、もはや世の中は割り切れないのだから。