No.18 区別が精緻化されたことによる負の現象
20年ぐらい前、性同一性障害という言葉も、トランスセクシュアル・トランスジェンダー(※1)という言葉もなかったころ、一般社会の人たちは、私たちのようなトランスジェンダーと同性愛者とを、明確に区別して見てはいなかった。もっとも、しっかりと区別して見ている人は、現在でも、大多数とはいえないだろう。しかし、なんとなくのちがいみたいなものは、ある程度は浸透してきているともいえる。
(※1)トランスジェンダーの語は、ここではトランスセクシュアルも含んだ広い意味で使っている女性として生きていきたい私たちに対して、笑いや揶揄ではなく、真面目に考えていこうという報道姿勢も見られるようになってきている。ゲイの人たちとのちがいも、それなりに区別した報道がなされるようにもなっている。
こうした状況は、もちろんいいことだ。トランスジェンダーへの理解もより一層進んでいくことだろう。
でも・・・ここで、なんとなく、心の中に落ち着きどころの悪さを感じてしまうのだ。トランスジェンダーも同性愛者も十把一絡げで、「オカマ」と呼びあらわされていた時代、同性愛のゲイの人も、MTFのトランスジェンダーも、要するに、セクシュアルマイノリティとしての連帯感みたいなものがあった。どちらのタイプであっても「日陰者」として暮らしていかなければならないという共同意識みたいなものがあった。
今の若い人たちは耳にしたこともない誌名だろうが、そのころの同好誌に「風俗奇譚」というのがあった。この雑誌は、1冊の本の中に、女装というトランスジェンダーを扱ったところと、ゲイの部分を扱ったところと混在しているものだった。「女装」という言葉をTS(トランスセクシュアル)の人たちは忌み嫌うが、当時は、TSと「女装」とを分かつ壁も理論もありえない時代であり、心が女性であろうが、趣味としての女装であろうが、ともに「女装」であり、変態の域に押し込められていた。「風俗奇譚」は、そういった「変態」の性のありようをもつ人たちの同好誌だったともいえる。
夜の接客業などに従事していない、当時の、いわばアマチュアのトランスジェンダーたちが集うサークルとして、東京の中野に「富貴クラブ」というのがあったらしいのだが、心が女性であるとか、趣味で女装しているとか、はたまたナルシズムの女装であるとか、そんな区別はお構いなく、このサークルで、ひとときの心の癒しをもっていたように思われる。
TS、TG、TV(※2)、そのちがいで反目することもなく、ある意味では、素朴な連帯意識があったともいえよう。そして、当時でも、「自分たちはゲイの人とはちがう」というような理屈ではなく自然に生まれてきた感情はあったようだが、それでも、交流の場がはっきりと分かれていなかったこともあり、ゲイの人たちとの接点もそれなりに存在していたようだ。
(※2)Transgender/Transsexual/Transvestite 生物としての体の性と、自分自身を認識する心の性とが一致しない人(例えば女性の性器を持ちながら、男性の性を演じたい人)は、3つのタイプとなる。トランス・ジェンダー=生物上の体の性と、自認する性が一致しないので、自己の性と反対の性で生きようとする人。役割上も人々からの認知も反対の性を求めている。トランス・セクシュアル=トランス・ジェンダーの人で、さらに外科的手術で性器を転換して反対の性に―本人にとっては本来の性に―変えようとする人。性同一性障害としてみれば、性転換手術□の対象となる。トランス・ベスタイト=異性装者のことで、パートタイムのトランス・ジェンダーと理解することもできる。クロスドレッサーともいう。(朝日新聞社 『知恵蔵 2000』)
現在では、性の問題を分析するツールと理論が開発され、なかなか精緻に区別されるようになってきている。
性自認(ジェンダー・アイデンティティ)という分析ツールは、マイノリティの性の問題を語るときにとても役立つものとなっている。そして、このツールを用いることによって、同性愛者とトランスジェンダーとは、そのちがいが明らかに区別されるようになった。MTFの人が男性を好きになることと、ゲイの人が男性を好きになることとの相違が、理論で明快に説明できるようになり、そのことで、トランスジェンダーの人たちがわだかまっていた「同性を好きになる」というホモセクシュアルのとらえ方からは解放されるようになった。「自分たちは、普通の男女と同じヘテロセクシュアルなのだ」という理解をするようになり、なんとはなくの安心感を得られるようになった。
「自分は、心は女性なのだが、まちがって、男の体をもって生まれてきてしまった」
という理解だ。だから、心にあわせて体を変えるという医学的措置と、医学的措置後の法的な取り扱い(戸籍の性別変更)を変更することで、問題は解決するという見地が生まれてきた。ある意味では、無理ないことでもある。その気持ちを理解できないわけではない。
だが、だからこそともいうべきなのだが、こういった理解の中に、そして、自分の心の安定感をえるプロセスで、
「ヘテロセクシュアルこそが普通であって、ホモセクシュアルは異常なのだ」
という、多数の普通のセクシュアリティの感覚に乗っかかっていってしまっていないか、ということが気になっている。自分の性自認にそう形での体を手に入れるというだけにとどまらず、一般社会に「常識」みたいに蔓延している、ヘテロな関係をもっていたいというホモフォビア(同性愛嫌悪)の感覚に乗っかかってしまっているのではないか、という危惧がついてまわる。
以前、性同一性障害ということでの理解も全くなかったときには、自然な流れとしての、同性愛者とトランスジェンダーという、どちらにしても「変態だよ」といったセクシュアルマイノリティどうしの連帯もあった。しかし、区別するツールがわかってきて、区分が精緻化されだしたからこそ、「あなた達と私とはちがうのよ」という離反が起きているように感じている。そしてそのことで、同じセクシュアルマイノリティでありながら、ホモフォビアの感覚が広がるのではないかという危惧と、反対側の作用として、同性愛の人たちによるトランスジェンダーへの「性自認のズレ」ということへの無理解(※3)が起きているのではないか、こういうことがとても気になっている。
(※3)同性愛の人たちは、性自認の問題では、普通の男女と全く変わらないため、性自認ということでは多数派の側にいる。私たちとの接点が少なくなれば、マイノリティの側にいるトランスジェンダーのことの理解が薄れるのではないかという危惧がある。さらに、トランスジェンダー内部のことに目を移せば、次のことも気になっている。
「富貴クラブ」の時代には、TSもTGもTVも、そんな区別は曖昧だった。
「あなたと私とでは、性のあり方に微妙なちがいがあるなあ」
という感覚を抱きながらも、それでも、一緒に集っていたと推測される。ちがいを持った人たちが一緒に集うのであるから、少なくとも、集っているトランスジェンダーの間では、多様なあり方を認めあえる雰囲気があったはずだ。少なくとも、
「私とあなたはちがう、あなたのありようは、私にとっては迷惑だ」
などという、現在、主として、TSの方たちが口にすることがある言葉は、当時はありえなかった。
現在、性別に違和感を抱くという共通項をもちながらも、「社会的な性役割(ジェンダー)での違和感」と「肉体的な体の部分での違和感」と、微妙に重なりながらも、違いもわかってくるようになっている。
「肉体的な体の部分での違和感」をもつ人(一般的にはTSとされる)のなかには、日頃、「女性らしい」服装や振る舞いもなく、とくに、お化粧するでもなく、スカートもはいていない人たちがいる。社会的な性役割での違和感より肉体上の違和感に重きがある場合には、そういうケースもおきうる。
一方、「社会的な性役割(ジェンダー)での違和感」を重点をもって感じている人の場合は、服装やお化粧も含めて、「女の子らしい」とされることをしようとする傾向が強い。ファンデーションのあれこれを試してみたり、口紅を何本もそろえてみたり、マニキュアにら凝ってみたり・・・だいたいは、「社会的な性役割(ジェンダー)での違和感」を中心に感じている人に、こういった傾向が強い。
もちろん、両者は重なっているし、双方を切り離すことはできない。ここで言っているのは、傾向の違いのことだ。
女性になる、女性として生きる、ということは、どちらがより大切かというような次元のことではない。普通の女性を考えてもそれはよくわかる。自分の体をどうするかということへの関心と同時に、ファッションや化粧などに関心をもつことは、多々考えられる。むろん、「女らしさ」が抑圧を生み出してきたと考え、「女らしさ」を極力拒否して生きている女性もいる。
女性であるといっても、そのことをあらわす指標はさまざまであるということなのだ。外性器やふくよかな胸だけが女性をあらわす記号ではない。私たちは、日常的には、外性器で男女を判断しているのではない。街中を、性器を露わにして歩いているわけではないのだ。私たちは、日常的には、服装やしぐさ、しゃべり方などの「ジェンダー記号」でもって性を判断している。外性器という肉体でもって、それを、性の分岐点ととらえることは、性の一面だけを見ているにすぎないということを考えるべきだろう。
となると、女性が本来の性というふうに考えているTSの人たちが、自己の外性器という肉体にこだわるのはいいとしても、TGや、定義のしかたによってはTVとの違いを強調することほど愚かしいことはないということになる。「女性であることが本来の性」だと考えている人たちにも、女性であることの重点をどこにおくかでは、人によりさまざまな違いがあるということに、もっと自覚的であってほしいと思っている。
昔は、「女装」ということでひとくくりだった「富貴クラブ」の時代の素朴な連帯が、セックスとジェンダーという性の分析ツール理論が発展してきたことが、逆に、違いを顕在化させることになり、トランスジェンダー内部でさえも、連帯ではなく対立の様相を招いていることは、理論の精緻化ということの負の側面なのだろう。もちろん、だからといって悲観しているわけではない。精緻化されていない時代の自然な連帯から、精緻化による対立、これは、「正−反」という弁証法のプロセスでもある。対立のつぎにくるのは、否定の否定という弁証法理論にもとづいて、再び、連帯の時代がやってくるはずである。ただし、そのときの連帯は、自然な連帯ではなく、精緻な理論をくぐったあとの意識的な連帯である。そのときには、私たちセクシュアルマイノリティはの人権は、大きな一歩を踏み出すときでもあるかと思っている。