No.36 トランスジェンダー〜カムアウトして生きる〜

 性教協(人間と性 教育研究協議会)が企画編集し、エイデル研究所というところから出版されている雑誌に「季刊 セクシュアリティ」というものがあります。この雑誌のNo.5(2002年1月発売)から、トランスジェンダー〜カムアウトして生きる〜のタイトルで連載が始まりました。所収のものはNo.6、連載としては第2回目のものです。「トランスジェンダー内の立場のちがい」ということで、性別2元制にこだわるTS原理主義的な立場のトランスジェンダーと、別の性役割へのこだわりをもちながらもジェンダーフリーを支持していくトランスジェンダーとでちがった感性があることをのべています。
 私が書いた部分を転載いたします。

トランスジェンダー 〜カムアウトして生きる〜
(2)トランスジェンダー内の立場のちがい

            宮崎留美子(高等学校・公民科教諭)

 トランスジェンダー(性同一性障害を持つ人)と一口にいっても、ものすごく多様なかたちがある。同性愛者の場合でも多様性があるのだが、トランスジェンダーの場合、たぶんその比ではないだろう。「トランスジェンダーをどうとらえるか」ということでの大きな溝の話、それが今回のテーマだ。
 トランスジェンダーと同性愛者とは、一応、区分される。体の性と、男でありたいか女であるべきかという自分の性認識(性自認)にくいちがいがある人たちが前者だ。一方、後者は、性自認の問題ではなく、自分の性の対象(性的指向)が同性に向いていることにその特徴がある。トランスジェンダーは、自分の性がどうであるかで頭の中は一杯であるといってもいいかもしれない。性的指向は、自分にとっては二義的な問題なのである。
 確かにちがいはある。でも、ちがいはちがいとして、とにもかくにもセクシュアルマイノリティであるという点では共通の土俵がある・・・と、こんなことを言ったら、トランスジェンダーの一部の人たちからは、大きなお叱りを受けてしまう。
 トランスジェンダーには、外見的な肉体の性を変えてしまわないと苦痛から逃れられないというTS(TransSexual)、肉体的に性を変えるよりも社会的な性役割の移行を望むTG(TransGender)がある。さらにもっと広く考えるならば、異性装もここに含まれる。
 このなかで、TSといわれる人たちの中の一部に、つぎのように主張する人たちがいる。
「自分たちはセクシュアルマイノリティではない。自分たちはもともと女なのだ(MTF※の場合)。体の病気で男性の体になっている。手術で治療し戸籍の性別をもともとの女に訂正すれば、全く普通の女性と変わるところはない。そうなったときは、マイノリティではなく普通の多数の女性と同じである」
 この人たちは、自分たちを、同性愛者と一緒にしてセクシュアルマイノリティでくくられてはかなわないと考えている。そして、自分たちと同性愛者とを少しでも混同する発言があったりすると、極端に嫌悪感を示す。
 この人たちにかぎらず、私たちの特性として内在していることなのかもしれないが、同性愛者と一緒に見られることを嫌う傾向がないとは言えない。男性を好きになるのは異性愛であって同性愛などであるわけがないという気持ちはけっこう強い。性自認の視点からみればそのとおりなのだが、両者の科学的な区別を超えて、そこにホモフォビアが潜んでいるのではないかということを、私たち自身も自己検証していかなければならないと思っている。
 自分には関係ない人ごととしてそしらぬ振りをするつもりはない。私自身も、つい1年ほど前、本誌の4号で報告があった「セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク(代表:高取昌二)」で副代表をさせていただき同性愛の方と頻繁に接触するまでは、相当にホモフォビアがあったことを白状する。私が男性の肩に寄りかかって歩くのは「自然な姿(異性愛コードでとらえられるから)」なのだが、マッチョな男同士が手をつないで歩く姿には少なくない違和感があった。もっとも、同性愛者との交流が全くといってよいほどなかったことも一因としてはあるだろう。当事者でない方にはよくわからないことかもしれないが、私たちのコミュニティと同性愛者のそれとは、ほとんど交流はない。ときに「オカマ」と一括りにして、侮蔑されたり、あるいは誇りをもって自称する文脈で使うこともあるが、実は、お互いは、けっこう疎遠な間柄なのだ。
 TSの一部の人たちに対して、「性同一性障害って、その人のもっている個性と考えた方がいいんじゃないか」とでも言おうものなら、寄ってたかって袋叩きにされかねない雰囲気がある。
 多様なセクシュアリティを認めていくべきだと考えている人たちであれば、性同一性障害を個性と考えるのは自然な思考である。本誌の読者の多くにとっては、病気とみるよりはその人の個性と考えた方が、ストンと心に落ちるかもしれない。でも、当事者の中には、個性とされたら、「この体こそが誤っているんだ。男でも女でもない立場でいたくない」と声を震わしながら主張する人もいる。同性愛者が自分たちを「個性」だとみてもらいたいというのとは、様相はまるっきりちがう。
 MTFの彼女たちは性別二元制の強固な支持者でもある。病気ゆえに治療してもらい、戸籍も女性に訂正し、旧来からの女性の性役割にどっぷりと浸りたいと考える人は、けっこういる。ジェンダーフリーの主張は、この人たちにとっては「一部の突出者の我慢ならない思想」として写るらしい。
 個性ではなく病気、性別二元制の熱心な信奉者、ホモフォビア・・・こういった特徴をもつトランスジェンダー(とくにTSに多い)が一定数いる。しかし一方では、戸籍の性別に固定された「男らしさ」「女らしさ」を求められることで苦痛を感じてきたため、そういう社会のあり方をおかしいと感じ、「自分らしさ」を普通に出していける社会を求めている人たちもいる。こういった人たちは、ジェンダーフリーを言うフェミニストとも親和的だ。性別二元制が強制されることには違和感を抱く。
 そして、こういった人たちは、自分たちの性のあり方を「病気」ととらえることには抵抗を感じる。同性愛者が自分たちのあり方は個性なのだと言うのと同様に、トランスジェンダーも個性としてとらえようと考える。『性同一性障害はオモシロイ』(現代書館、1999年)を書いた佐倉智美さんはたぶんそのタイプだろう。昨年末、この方とお会いする機会を得たが、私とも多くの感性を共有した。
 フェミニストから、「フェミニストとトランスジェンダーは共闘できるか」との問を投げかけられることがある。性別二元制に浸り逆の性に変わることで自分の居場所を見いだす人にとっては、共闘はありえない。では私のようにジェンダーフリーを肯定する立場の者はどうか。非常に複雑な胸の内であることをさらけだそう。頭ではわかるが、心の奥底にある「女は女らしくあるべき」ということとの葛藤を抱えている人は、かなりいそうだ。体の性で固定的に割り振られる「らしさ」に抑圧を感じながらも、逆の性になることでそれを解消しようという感覚と、「らしさ」が強制される社会をこそ撃つべきだという、「らしさ」に苦しんできたゆえに体得しえた理論との間で、揺れ動きつつ自分の立脚点を見いだそうとしている姿、これが私などのタイプのトランスジェンダーなのかもしれない。
※MTF Male To Female 男から女へ