No.55 戸籍変更問題での私の気持ち
戸籍変更問題での私の気持ち
数名のトランスセクシュアルの人が、戸籍の性別変更(訂正)を裁判所に申し立てたものの、現在までの司法判断は、すべて却下されてきている。
現在は、この運動の軸は、性別に関しての戸籍を変えるための法律制定の方向に移ってきている。こういった状況のもとで、いくらかニュアンスを異にする運動体が、それぞれに活動を始めている。
私が、2002年夏、「季刊セクシュアリティ」という性教育関係の雑誌に書いた文章がある。現時点ではやや古くさくなった記述もあるが、転載し、この問題を考える一助となれば幸いだと思う。
「季刊セクシュアリティ 7号」(2002年7月号)、企画編集:性教協 エイデル研究所発行
トランスジェンダー カムアウトして生きる
〜 トランスジェンダーと戸籍の性別訂正 〜宮崎留美子(高等学校・公民科教諭)
虎井まさ衛さん他数名のトランスセクシュアル(TransSexual以下TSと記す)の人が、裁判所に戸籍の性別訂正を申し出ているという話は、ここの読者の方は耳にしたことがあるかと思う。性自認をベースにして考えると、もともと男性(女性)であるはずなのに、誤って、女性(男性)として登録されたため、戸籍を変更するのではなく「訂正」する手続きなのだという論理が、さらに背景にはある。
TSの方々から、「戸籍訂正が認められないと生命にも関わることだ」と、日々の生活での耐えがたい苦痛と不便が語られることを聞くことがある。性別に違和感をもつトランスジェンダーのひとりとして、私もこの気持ちはよくわかる。当事者のひとりとして、私ももちろん訂正の処置が行われるようになることを支持している。そして、セクシュアルマイノリティの人たちを受け入れていこうという熱い思いを持っている本誌の読者のみなさんも、戸籍の訂正は当然のことと漠然と思っていると私は推測しているのだが、この背景には、実は当事者間でも実に頭を悩ます問題が横たわっている問題があることをご存じだろうか。
性同一性障害の当事者ではない人にとっては、自分の利害には直接には関わらないこともあり、人権と共生の気持ちを強く持つ人ならばなおのこと、何とかできないものかとやさしい気持ちを抱くのが普通かもしれない。逆に、利害が関わってくる当事者の側が、悩ましい問題だと頭を抱えている状況がある。狭義でTGと言われる人たちがそうだ。
トランスジェンダー(広義)のなかでも、TSは外見的な生物学上の身体を変えなければ耐え難い苦痛があると考える人たちであり手術をもとめるのにたいして、狭義のTG(TransGender以下TGと記した場合は狭義の意でのべている)は、外見的身体を別の性に変えるというよりも、服装などの含めて社会的な性役割を逆の性で過ごすことに重点をおく人たちである。概して、手術を行うことはそれほど考えていない。
現在、TSの人たちは、性別適合手術(性転換手術)を終えているという前提のもとに戸籍の性別訂正を実現しようという主張をしている。この主張に、TGの人たちは、自分たちは排除される、または不利になると考え、この前提はとんでもないと反対を表明する人がいるという現実がある。
トランスジェンダーの1人として、虎井さんたちTSの気持ちはひしひしと伝わってくるし、逆に、TGの言い分にも「気持ちはよくわかるよなあ」ということもあって、戸籍訂正についての意見を求められるたびに、私は悩ましい気持ちを抱えている。* * *
手術を終えたTSであろうと手術を考えないTGであろうと、日常的に生活している場面では、自分の性器を第3者に見える形で外に出して生活しているわけではない。MTF(男から女へ)の場合だと、TSであってもTGであっても、外に表れる姿としては、化粧したりスカートをはいたりして生活しているかもしれないが、戸籍の性別と日常の生活スタイルとで乖離があり不便や苦痛を感じることでは両者に差異はない。第3者は、当該者の性器の形態で判断しているのではなく、服装などの社会的に外に表れているジェンダーで判断しているからだ。
このように、日々の生活のなかで置かれた環境は、TSであってもTGであってもとくに変わるわけではないため、戸籍の性別変更の逼迫性はどちらも同じなのである。ところが、性別適合手術が終了していることを前提としてでなければ変更が認められないとなれば、TGの側の不便や苦痛は何ら解消されず、TSしかその恩恵にあずかれないという、新たな差異と不都合を生み出すことになる。
一部の人たちの発言にすぎないが、「そんなに自分たちも戸籍訂正したいのならば、ちゃんと手術をすればいいじゃないか」などと、火に油を注ぐような発言をする人たちがいるから、さらに話はややこしくなる。TSとTGとで、身体的な性と社会的な性のどちらにこだわりが大きいかなどで、自分の性別違和感を解消するための方法に差異があり、またそのことが性の多様性でもあるわけだが、そこのところの認識が薄い人たちがいると、言われた方もさらに意固地になる。問題はいっそうこじれてしまう。
とはいえ、現実に一歩を切り開くプロセスとしては、〈手術を前提としない戸籍訂正〉の要求はハードルが高すぎる。今の社会に、「ペニスのある女性」という概念を受け入れる素地があるとは思えない。主観はどうであったとしても、現実から遊離した要求をかかげた場合、結果として運動を邪魔することになる。TGの側が「手術を前提としない戸籍訂正を」と主張することは、現実の動きのなかでは戸籍訂正そのものを遠ざける結果を招きかねない。政治的な判断無視して発言することは危険だ。
どちらの側が不当なことを言っているとかのことを述べているのではない。性の多様性という現象を大きな視点でとらえることなく、自分たちの利害という視点だけで発言する場合、異なった立場の人たちがいなければ問題は起きないが、利害が対立したときには、傍目には、あられもない内輪もめと見られてしまうおそれがあるということを言いたいのだ。戸籍の性別訂正のことでいえば、性別訂正だけを目的化した発言をする人があれば、その恩恵からこぼれ埒外の線引きをされる側(TG)が反対の行動をとることだってありえるだろう。TGの側にも自分にとって利益になる行為を行う権利があるわけだから。
大切なのは、訂正そのものにあるのではなく、性自認での「性」が尊重されて生活していける社会のありようにしていくという視点こそを基本にしていくべきだということ。体の性と心の性がずれて苦悩している人に対して、手術をしてようと、ノンオペであろうと、ともに受け入れていける社会であるようにすること。このことを基本にした視点を持たなければならないと思っている。
多方面でご活躍の虎井さんは、このあたりはしっかりと考えていらっしゃる方だが、すべてのTSがそうであるわけではない。こっそり性を変えて別の性になりマジョリティの側で生きていくことに至上の価値をおくというような狭い視野のTSの人たちもいる。ぜひ、狭い視点ではなく、多様な性のあり方の人が差別や偏見を受けることなく共生していくことができる方向性を持っていただきたいと、私は思う。そうすれば、多くのTGも、TSの人たちが先行して戸籍訂正を実現することを「同じ仲間意識」として温かく受け入れていくのではないだろうか。
私自身がTGであることをカムアウトしてメッセージ発信しているためか、メールなどを送ってくるのは、ほとんどがTGタイプの人である。自分の性のあり方と仕事と家庭との軋轢、親にどう言えばいいのか、スーツの下にブラをつけて会社に行くことで性別違和感を和らげようと工夫している人たち、自分の夫がTGであることを知り悩んでメールしてくる女性などなど、「性を変えて生きる」ことの苦痛は実にさまざまだ。
性別の戸籍訂正はゴールではないし、逆に、ゴールと考えたならば、訂正ができる人とできない人という新たな差別を生み出す原因すらつくりだす。多様な性のあり方の人たちが、お互いのありのままを受け入れていく社会になることの出発点であると、私は考えたい。つぎに、2003年2月16日付の朝日新聞社説に次のような文章があった。少々長いが、全文を引用する。
リベラルだと言われている朝日新聞ですら、「GIDと診断されたこと。性別適合手術を受けたこと」の条件を付してという主張をしている。これが現時点での、なんとか突破口となりうる限界なのだろうか。TGにとっては極めて残念だが、こういった現実を見ないわけにはいかない。
■性同一性障害――戸籍の性別訂正に道を
想像してみよう。もし住民票や保険証、パスポートに自分の性別とはちがう性別が書かれていたら、何が起きるか。
就職のとき問題になる。病院では診察が受けにくい。空港の出入国審査の窓口で係官ともめる。さまざまなトラブルに見舞われるにちがいない。
少なからぬ人がそういう苦痛を現実に味わっている。心の性別と身体の性別が食い違うGID、性同一性障害の人々だ。
日本精神神経学会が定めた基準に沿って、医療機関でGIDと診断された人は千人を超える。98年、埼玉医科大学が国内最初の性別適合(性転換)手術に踏み切って以来、これまでに20人ほどが同大と岡山大学で手術を受けた。
なお多くの人がホルモン療法やカウンセリングを受けながら手術を待っている。
肉体的にも経済的にも大きな負担に耐えて心にかなった性に移行した人たちは、ほとんどが以前より精神的に安定した生活を送っている。
最近では、GIDの診断があれば、家庭裁判所で比較的簡単に名前の変更も認められるようになった。
その彼らの前に大きな壁がなお立ちはだかっている。戸籍上の性別だ。
住民票や保険証など公的な書類に記された性別は、出生時に戸籍に記載される「長男」「長女」などの続き柄に基づく。
戸籍の性別を直したい。一昨年5月、手術を受けたGIDの6人が、各地の家裁に申し立てをした。戸籍法は、戸籍の記載に「錯誤」がある場合は家裁の許可を得て訂正を申請できるとしているからだ。
ところが、このうち3人の申し立てが昨年末までにたてつづけに却下された。染色体から見て出生時の生物学的な性別の判断に誤りはなく、「錯誤」には当たらないというのが理由だ。
体や名前を変えることは認めたのに、戸籍の性別の訂正を許さないというのは理不尽ではないだろうか。
1月末には、GIDの人々らが法制度の見直しを求めて会を結成し、運動に立ち上がった。
欧州や米国では70年代から80年代にかけて、性別訂正のための法整備が進んだ。日本と同じような戸籍制度をもつ台湾や韓国でも、裁判所が人権という視点に立って柔軟に訂正を認める例が増えている。
科学や医学の進歩は、人間の心についても思いがけない発見をもたらしてきた。GIDのように、新たにわかった困難を抱えている人たちの権利を守るには、いまの戸籍法では限界がある。
GIDと診断されたこと。性別適合手術を受けたこと。例えばこのような条件をつけて、性別の訂正ができるように戸籍法を改正するか、新しい立法を考える時ではないだろうか。社会の理解も少しずつ広がっているように思う。***** 2003年2月に、「gid.jp」という組織が旗揚げしたと聞いた。私は、この組織の動きに、関心をもってみていきたい。というのは、その主張のなかで、私にとって賛同できる主張も多いからだ。そして、私も大いに学ばされた。
「gid.jp」から、つぎのような主張があった。2002年7月に、季刊セクシュアリティに書いた私の主張と、かなり重なっていると、私は思っている。
性同一性障害をかかえる人と言っても、実は様々な方がいらっしゃいます。
みんな同じように苦しんでいます。そして、多くの方は戸籍を変えて欲しいと思っています。
それをどうして当事者が同じ当事者をあなたはいい、あなたはダメって区別することができるでしょうか?それって、差別じゃないのでしょうか。どうして要件に入らない人を見捨てることができるでしょう。私たちにはできません。だって同じ仲間なんですから。
また、要件を提示するということは、議論の出発点がそこからになり、その要件より更にキビシクなることはあっても、決して緩くなる方向には行かないでしょう。
ですから、当事者運動のあり方として、自分たちの側から要件を持ち出すのは誤っているのではないでしょうか。
私たちは、戸籍とは異なる性で社会で暮らしています。でも戸籍が変わらないため様々な齟齬が生じています。そのため多くの不利益を被っています。ですから、この齟齬を解消するために、戸籍を変えて欲しい。要求はそれで充分ではないでしょうか。
もちろん、性別訂正に関する審議が進んでくると、いろいろ要件を付加される可能性は充分あります。
私たちは理想主義者ではありませんから、それで法案が通るのであればある程度の妥協を選択するでしょう。
でも、そうした場合でも「苦渋の決断として」その要件を受け入れることでなければいけないと思っています。
そうすることが、次回の見直しへとつながっていくからです。ただ、なんでも妥協すればよいというものではありません。やはりある程度の数の方を救えるものでなければならないのは当然です。
gid.jp は、「自分たちの側から要件を持ち出すべきではない」と言っていることに対して、私は、現段階では「性別適合手術を要件とすること」はやむをえないと書いた。確かに、ここはちがう。しかし、「みんな同じように苦しんでいます。そして、多くの方は戸籍を変えて欲しいと思っています。それをどうして当事者が同じ当事者をあなたはいい、あなたはダメって区別することができるでしょうか?それって、差別じゃないのでしょうか。どうして要件に入らない人を見捨てることができるでしょう」という部分は、私も同感だ。季刊セクシュアリティに載せた文章を書いたときは、TSの人たちから、手術要件は当然であり、私のようなトランスジェンダーごときが口出しするなというように言われている状況があったということと、虎井さんが、自分たちの苦悩を切々と訴え、それにも応える必要があると思っていた、私自身の背景もあった。そして、gid.jp のような考え方のグループがありうるということは知らなかった。
gid.jp のようなグループが旗揚げした今日、新たに、私も学ばなければならないと思う。妥協の産物として、「苦渋の決断として」その要件を受け入れるというところは、私とて主張がちがうわけではない。私はトランスジェンダーの側である。どうして諸手をあげて「手術要件」を受け入れるだろうか。苦渋であることは当然だ。だが、現実を見て運動はすすめるべきだとの考えはもっている。
今の段階で、こちらの側から、要件を口に出すことはあってはならないのか、それとも、長期の展望を語るなかで、現時点での戦術としての「要件」を言うことはあってもいいのか。gid.jp の主張からも学びながら、自分なりにもうすこし整理する時期がきたようだ。