No.68 保坂展人さん/羽田圭二さんの話を聞いて
現在は卒業しているが、私の教え子から、「保坂展人さんが三軒茶屋で演説をするので聞きにこないか」と、急に電話があった。その日の夜には人と会う約束があったのだが、その時間まではとくになにもなかったので、見解を聞いてみるのもいいかもしれないと思いたち、さっそく聞きに行くことにした。
実は、保坂展人さんとは、ちょっとした「多少の縁※1」がある。昔から活動されている、その世界では大御所のゲイである東郷健さんが『常識を越えて』という本を出版されたとき、その出版記念パーティの発起人として保坂展人さんとともに私も名前をつらねたことがあった。そのときのパーティで保坂さんと一緒にステージに並んでスピーチをしたことがあった※2。実際にお会いしたのはこのときが初めてだったのだが、保坂さんの名前はずっと以前から知っていた。政治経済の科目を教える教員であれば知っていて当然のことなのだろうが、彼は、憲法がからんだ裁判の原告として名前が知られている。その訴訟は「内申書裁判」といって、政経の資料集にも載ることがある事例であった。未成年のころから権力に抵抗してきた経歴をもつ保坂さんは、弱い立場の人や抑圧されている人の側にたってメッセージを発信してきている人だった。
彼の最終学歴は中卒。内申書がからんで、都立日比谷高校を不合格になり、その後の新宿高校(定時制)を中退しているため、公の学歴は中卒ということになる。だから、それゆえに、学歴社会の不条理さやドロップアウトした生徒たちの気持ちがわかるのかもしれない。
※1「袖触れあうも他生の縁」ということで「他生」が正しいのだが、ここでは、少しばかりの縁といういう意味をこめて、意図的に「多少の縁」としている
※2 エッセイNo.41にそのときの写真を掲載している.http://www008.upp.so-net.ne.jp/miyazaki/Essey041.htm
街頭演説では、イラクへの武力攻撃がいかに不条理なものであったかとか、憲法9条を変えようとすることの問題点など、がんこに平和の問題を訴えかけていた。不況の問題、官僚支配の問題、政財界癒着の問題はもちろん大切だ。しかし、自衛隊がイラクに派遣されるかもしれないという今、平和の問題を抜きにして「現在」を語ることは、ものごとの半分しか見ていないことになるのだと思う。
私はトランスジェンダー。多様な性のあり方の人が受け入れられる社会になってはじめて、私も自分を偽ることなく自分らしく生きていくことができる立場にいる。一方では、「多様な性のあり方など関係ない。男性から女性に(女性から男性に)体の性を変え戸籍を変えることができれば、それですべては解決だ」と主張する人たちがいる。こういった人たちは、多様な性のあり方などにはさほど関心がない。障害がある人も健常者といわれる人も、また、多様な価値観をもつ人も、お互いが認めあって生きていける「共生社会」を、展望として語ることもない。まして、平和の問題とトランスジェンダーの問題とを結びつける発想はきわめて希薄だろう。
私は、この立場をとらない。
トランスジェンダーが生きやすい社会、障害者がバリアなく生きていける社会、多様な価値観を認めあい共生できる社会、そして、平和を守り戦争に加担しない社会。これらの課題は密接につながるものだと、私は考える。
学校の卒業式で、「国歌斉唱のときは起立して歌うこと。起立しなかったり歌わなかったりした教職員は処分する」と、処分をちらつかせて、立つこと/歌うことを強制する姿勢が強まっている。
これはおかしい。全くの憲法違反である。憲法に謳われている思想・信条・良心の自由は「内心の自由」と呼ばれており、絶対不可侵の権利としていかなる場合でも侵してはならないと解釈されている。人権の他の条項では、公共の福祉という概念で最小限度の制約を受けることもあるのだが、内心の自由については絶対不可侵のものとされているのである。このことは、政治経済の教科書にもはっきりと明記されていることであり、近代国家以降の世界の趨勢でもある。
やや乱暴な事例だが、内心の自由について、ちょっと解説しよう。
お年寄りには席を譲ろう、お年寄りを大切にしよう。このことはとても大切なことだ。自分だけよければいいという生徒ではなく、お年寄りのように弱い立場の人への心配りができる生徒になってもらいたいと考えるのは、よほどおかしな教員ではないかぎり、そのように考えていると思う。
さて、ある生徒が、「年寄りは、自分より早く死ぬんだから、これからずっと生きる自分の方が大事だ。席など譲る必要がない」と考えていたとしよう。こういった考えに対して、市民の道徳感情として、「そんなことはおかしいよ」と諭し、お年寄りを大切にすることを指導していくのは、これはむしろ必要なことだ。しかし、ここに、国家権力が「お年寄りを大切にしろ」と命ずるとなれば、話は別だ。
お年寄りを大切にするべだという価値観をもつか、早く死ぬお年寄りのことなど知ったことではないという価値観をもつかについて、ある価値観を持てと国家が強制し、それに従わぬ者に対して処罰を与えるとなると、これは大いに問題だ。処罰は、あくまでも、行為に対してであって、殺人を犯したら処罰されるのは当然だが、殺人を当然だと考える思想について処罰するとなれば、これは内心の自由を冒すことになってしまうということ。
お年寄りに対して、どういう態度で接していくべきかは、社会にいる市民が、その市民道徳としてつくりあげていく分野であって、国家権力が介入し強制する問題ではないということ。乱暴な事例だとは思うが、この観点が、内心の自由の絶対不可侵性と「市民として望ましい態度」ということとの接点なのである。
日本という国を大切に思い、愛着をもち、よりよい社会(なにをもって「よりよい」と考えるかについても大いに議論がわかれるだろう)にしていこうという「愛国心」を持つべきだということを、市民のあり方として、市民の間で語りあうのは、これは問題はない。しかし、愛国心を持つべしだということを主張するのはいいが、それに従わぬ者に対してペナルティを課すなどは、これはまさに、内心の自由への国家権力の強制だ。日本の法律を守り、納税など、国民としての義務を果たしていれば、その人がなにをどのように考え、どのような価値観を持とうが、それにとやかく言うこと自体が憲法違反なのである。
ウタ(君が代)やハタ(日の丸)のことは些細なことかもしれない。しかし、この些細なことで、内心の自由を守りぬけなかった場合には、今度は、もっと大きな「次の強制」がやってくるかもしれない。「軍隊に行って戦うことが当たり前」という価値観が強制され、その考え方に抗ったら処分されるという日がやってこないと誰が言えようか。そして、そういう時代には、「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という「あるべき」という強制がなされることと、必ずやセットになっているにちがいないと、私は思っている。
多様なあり方を認めあい共生していける社会が、ある特定の価値観に従わぬ者を処罰することを行えば、それは本質として矛盾するからだ。特定の価値観を強制してくる社会では、多様なあり方など認められる社会とはなりえない。トランスジェンダーなど、変態の極致として社会の片隅に追いやられることになるかもしれない。ただこのとき、性同一性障害という診断を受け手術をして「治療」し戸籍を変えた者だけは救済されるということは十分に考えられる。
果たして、これが、トランスジェンダーが望む社会の姿なのだろうか。
世田谷区議の羽田圭二さんは、区議会で、印鑑登録証の性別欄をなくすように働きかけを行った。日常生活のなかで、多様な性のあり方の人たちが過ごしやすくなる一助になる。こういった細かいひとつひとつの積み重ねで、性別にとらわれない生き方が許容できる社会にしていくのは、多様なあり方の共生とつながる。
羽田さんは、私が勤務する高校で、元PTA会長をされた方だ。PTA会長さんから睨まれたら、その学校で、教員としての仕事はやりづらくなる。でも、羽田さんはちがった。私を普通に受け入れてくれた。「いろいろな先生がいていいじゃないか」と言ったという(子どもさんから聞いた話)。
多様なあり方をやさしく受け入れる姿勢は、頑固に、戦争に加担することに反対し平和を守っていくことと深くつながっていると、ここでも感じたのだった。
保坂さんにしても、羽田さんにしても、目がとても柔和だ。頑固に自分の信念を貫き生きている人は、実は恐い人ではなく、とても柔和なのだということを、改めて感じさせてくれたものだった。そういえば、泡沫候補として落ちても落ちても立候補し続けた東郷健さんの目も実に柔和だった。