No.69 ありがとう、水俣


   ありがとう、水俣
          〜水俣病患者さんとの交流を通して〜

 水俣で行った私の講演については、熊本県の地方紙である「熊本日日新聞」2003年12月28日付の「くらし」のコーナーで紹介されました。
 その新聞記事については、
エッセイNo.70で紹介していますので、こちらの方もお読み下さい。

 

←(写真上:もやい会館での私の講演、写真下:母と女性教職員の会の主要メンバーの方たちと、不知火海の風光明媚なレストランで昼食)
 水俣・芦北の母と女性教職員の会から招待があって、トランスジェンダーにかかわる話をするために、12月中旬、土曜日の朝早くに東京(羽田空港)を発ち鹿児島空港で降りて、熊本県・水俣市に行ってきた。南国・鹿児島とはいうものの、この日は東京とたいしてかわらない寒さだ。この旅行のために買った?白いウールのコートが重宝になる気温だ。
 ところで、水俣市といえば水俣病発祥の地であり、日本の公害問題の原点ともなった地域である。私自身も熊本県の出身なのだが、熊本市内にいた私は、水俣病という名前だけを知っているという知識の程度で、これまでまともに水俣病のことを学んだわけではない。
 私自身は、夜、水俣市内にあるホール(もやい会館)で講演を行ったのだが、その日の昼間と翌日は、会のメンバーで教員をしている女性の方に案内してもらい、水俣病の観光スポット(※)を見学したり、水俣病歴史考証館でその歴史と問題点を学び、さらに、当事者の方にお会いして、生々しい話も聞いた。
(※)「観光スポット」という言い方は失礼な言い方だということを承知した上で、市外の通りすがりの者にすぎない私が見学した場所という意味を込めて、あえてこの言葉を使わせていただく

 有機水銀で汚染されたヘドロの海は埋め立てられ、きれいな道路がつくられ緑地帯になっている。海も蘇り、きれいな海水が広がる。水俣市に属する湯の児(ゆのこ)温泉は不知火海に面し、遠くに天草諸島を臨む風光明媚な観光地として人を集め、環境に敏感な街をめざす水俣市の現在がある。しかし、きれいに生まれ変わることが、「水俣病はもう終わった」として、残っている問題や偏見・差別に蓋をしてしまうのではないかと、当事者は告発する。有機水銀を含む汚泥の上にビニールシートを敷いてその上に土を盛り埋め立てたというのだが、長い年月のなかで、ビニールシートの上に汚染物質が染み出し、さらに、地上にまであがってくるのではないかという危惧も聞いた。汚いものに蓋をすることで本当に蘇るのだろうか。一度、汚染されると、それを元に戻すのには、途方もない資金と労力が必要になる。高度経済成長の裏で犠牲になった人、物、環境。こういった負の側面に目を向けないで、豊かさだけを享受することであってよいのか。かなり考えさせられた2日間だった。
←(水俣病患者の杉本栄子さんとそのお連れあいの方、そして私.杉本さんは漁師の一家です)
 当時の写真をみると、工場の排水口があるヘドロがたまっていた百間港は、今では埋め立てられてしまっていた。湾内に生息していた汚染された魚は捕られ、そこの地面の下に埋められたという。
 排水口は、チッソ水俣工場のものだった。当時、チッソは有数の化学工業の企業として水俣で操業していた。戦前は、国策会社のひとつとして発展し、水俣駅から工場まで赤絨毯を敷いて昭和天皇を迎えたこともあったという。水俣駅の真正面に工場が広がり、水俣がチッソの企業城下町であったことを、今でもうかがい知ることができる。高度成長当時は、塩化ビニールをつくるときに必要な可塑剤は独占状態で生産していたとか。現在でも、世界で使われている液晶の半分をつくっているとも聞いた。チッソ水俣工場は、今でも、水俣市の経済を支えている企業であることにかわりはない。
 1953年には、すでに原因不明の患者が現れている。50年代末までに、熊本大学研究班は、有機水銀が原因物質だということをつきとめ、この時点ですでに工場排水に原因があることは疑われていた。59年には、チッソの付属病院でネコを使った実験で、排水に原因があることが突きとめられていたものの、会社側は、1968年まで隠し通してきた。このあたりは、血友病患者への非加熱製剤がエイズの原因になっているという疑いがあったものの、その事実を隠し通してきた厚生省の姿勢とも重なる。水俣病の教訓を他の場面で生かすことはできなかったと言われてもしかたがない。

←(杉本栄子さんが語る水俣病特有の視野狭窄で苦しんだことや、周りの人たちの偏見・差別の話は、あまりにもリアルで深く考えさせられた)
 チッソ工場側に問題の所在があり、被害者は、汚染された魚を食べた水俣の漁民の側だったことは明白なのだが、企業城下町の水俣市民の感情は簡単ではない。相当にねじれ、またそのことが、差別と偏見を生む背景になっていることを知った。
 現在でも、進学や就職で他県に行ったとき、出身地が水俣であることを言えない、言いたくないということがあるという。水俣病患者に対しての偏見が存在し差別があるというところまでは、私の想像力は働いていた。しかし、当事者ではなく、単に水俣に生まれ育ったというだけで、「おまえ、水俣病なんじゃないか」とか、あげくには、水俣病患者の真似をされてからかわれたりする経験を持つ人がけっこういると聞いた。そういう背景もあって、自分自身が水俣出身であることを人に言わないというのだ。
 そして、こんなに偏見を受け揶揄されるのは、水俣病患者たちが騒ぎまくり水俣のイメージを悪くしているからだと、今度は、矛先を水俣病の当事者に向ける。かくして、水俣病じたいが、水俣病患者と一般市民との間に対立と軋轢を生む原因になってきた。患者のことを、水俣経済を支えるチッソ工場にたてつき補償金をむしりとっている輩という目で見ている人たちもいるというのだ。それも、決して少ない数の人ではなく、広範な市民の心の奥に潜む感情でもあるらしい。企業がつぶれたら元も子もないとする企業城下町に共通する市民感情なのかもしれない。問題の根は深い。
 こういった市民感情を、外部に住む私は批判はできない。でも、「しかし」と思い悩んでしまう自分もいる。
 ここで、私は別のことに思い至る。
 混住化(※)がすすみ、その場所が、元は被差別部落の場所だったということが知られなくなっているとき、部落解放の運動として、差別の実態を掘り起こすなかで、その部落の場所の存在が顕在化してくるとしよう。
(※)被差別部落だった地域に、部落の人たちと部落外の人たちとが混じりあって住むようになっていく状況

 その場所が、元は被差別部落の地域だったことがわかり広まっていく状態があるとすると、「地価が下がる、資産価値が下がる」として、地域の一般住民が反対することは考えられる。人は誰しも、自分の資産価値が下がることを喜ぶ者はいない。もちろん、私もそうだ。しかし、差別が存在していたという事実が隠蔽され、その事実を知る人が少なくなったということで差別が見えにくくなることが、はたして、差別と偏見をなくしていくことにつながるだろうか。少数の人たちへの差別や偏見がなくなったのではなく、ただ見えにくくなったというだけではないだろうか。見えにくくなったことで差別が表面化しなくなったとして、そのことを「前進」ということができるだろうか。
 他人事の問題としてとらえてはならない。他人事としてとらえている間は、人はやさしくなれる。しかし、自分の問題として降りかかってきたとき、人は無情な鬼に変身することだってありうるのだ。
 私の住居の近くに、障害者の施設が建てられる予定があったとしよう。そのことで、地価が下がるというようなことになり反対の住民運動が起きたとする。このとき、自己の資産価値の低下を受け入れてまで、こういった類の住民運動に、毅然として「反対する発想はおかしいではないか」と主張していけるだろうか。自分のことに降りかかったとき、人は、その生き様を問われることになる。
 もしそういう事態になったとき、毅然とできるかどうか、私にも自信はない。でも、そういったときにこそ、今回、水俣から学び得たことを生かしていける自分でありたいとは思っている。

 今、水俣の地で、「舫(もやい)直し」という言葉を何度も聞いた。対立関係にすらなった地域の絆を結び直すということのようだ。ちなみに、私が講演した場所も「もやい会館」というところだった。舫(もやい)直すことで、水俣病の教訓を活かし、弱者に優しいまち、環境を大切にするまちをつくり、水俣出身であることを誇りにできることを目指すとしている。水俣病の過去を封印するのではなく、それを教訓として、水俣に生まれ育ったことを誇りに思えるようにしていこうというのであれば、それはもちろんいいことだ。だが、これはなかなか容易ではないだろう。地域を無視して企業利益を追い求めていったツケは、当該企業のみならず、その地域にも深刻な陰を落としているのだ。

(杉本さん、教員の公害サークル会メンバー、知りあいの方々など、杉本さんの周りに集まってきた人たち.背景の景色は茂道の入江.茂道の集落は水俣病が多発した地域のひとつ.今はそんなことがなかったかのようにきれいで静かなたたずまいを見せている)→
 今回、私が水俣を訪れ、当事者の方たちと接することで学んだこと。それは、水俣病を、公害・環境問題ということだけでとらえてはならないということだった。差別・偏見、生き方の問題など、多様に複合した問題だということが、おぼろげながらではあるが見えてきた。そしてこの意味で、トランスジェンダーや同性愛者など、性的少数者がかかわっている問題とも接点をもちうるのだと私は思った。
 お会いしてお話した水俣病患者の杉本栄子さん(※1)と私との間に流れた「共通して感じあう気持ち」があったのは、片や公害問題、片やセクシュアルマイノリティの問題というように、位相こそちがってはいても、そこに、背景にある共通したことがらを持っているからではなかっただろうか。
 杉本栄子さんの仕事場であるシラスをつくる作業場で、湯がいたばかりのシラスに醤油やマヨネーズをかけて食べながら(なかなかうまい!)、彼女の話を聞いた。しばらくすると、彼女の息子たちが漁からもどってきた。蘇った水俣の海は、再び私たちに海の恵みを与えてくれる。その漁で捕れたばかりの、シラスになる小魚を生で食べさせていただいた。小魚は透き通っている。ポン酢をかけて食べたその味は、水俣の海の塩気をかすかに含んでいるものの、ほのかな甘さも感じる。こんな新鮮な食べ物を東京で食べることはまずできない。とれたてをすぐに食べる。なんと贅沢な食事なのだろう。
 海を殺し漁業を廃業に追い込み、工業生産物をつくってカネを稼ぐことだけが「豊かさ」につながるのだろうか。水俣は「豊かさ」とは何かということまで問いかけてくれる。
 杉本さんのところを辞するとき、たっぷりと、ビニールパック2つ分のシラスをいただいた。自宅に帰り、翌日の夕食は、このシラスと湯通ししたレタスと白菜を混ぜ、胡麻ドレッシングとマヨネーズで和え、それをアルデンテに湯がいたスパゲティにかけてテーブルに並べた。水俣地方特産の甘夏みかんのサングリア(※2)とともに食すれば、これは最高の豪華ディナー。

 美味しい海の幸と、「豊かさとは何か」を考えさせてくれた水俣。ありがとう。

←(私の講演を聞きにきてくださった杉本栄子さんと、そのお連れあいの方)

(※1)
杉本栄子さん・・・・水俣病の当事者.1959頃発病.水俣病裁判の原告家族として提訴.73年、勝訴判決を受ける.現在、水俣病の語り部として、全国あちらこちらで講演をされていらっしゃる.たいへんに元気のいい方.当地の女性教員の方たちに案内されて、私が杉本さんを訪問した前日、私の講演を、お連れあいの方と一緒に聞きに来てくださっていた.翌日、杉本さんにお会いしたとき、彼女から、「証言 水俣病」(栗原彬編、岩波新書)のご本をいただいた.この本の中に、杉本栄子さんの証言が掲載されている.

(※2)サングリア・・・・ワインと果汁をミックスしたカクテルの一種.熊本県は甘夏みかんの産地であり、この特産物を使ったサングリアはなかなか美味だ.


 水俣病の患者さんにお会いしたのは、杉本栄子さんばかりではない。前日に行った講演は夜だったため、その日の昼間には、講演会主催者メンバーの一人であるFさんに、胎児性水俣病患者さんが集う「ほたるの家」に案内していただいた。そこで、胎児性患者の坂本しのぶさんに出会った。
 水俣病は、生まれ出ている人だけを襲うのではない。母親のお腹のなかにいた胎児にも大きな影響を与えるのだ。高度経済成長で「豊かな日本」がつくられていった陰の部分では、こういった悲惨な出来事も招いていたのだった。カネもうけのためには人の命はどうでもいい・・・・資本主義の冷徹な側面なのかもしれない。
 県外の方で水俣に魅せられ、この地で患者さんと接し支援しながら、豊かな日本にいる自分たちのありようも問い返して生きていこうとする人たちがいる。カネや欲を追い求めない人生を送ろうとしている。スローライフは、効率こそ善であるという価値観に対抗する、もうひとつの「豊かさ」なのかもしれない。
←(ほたるの家にて.右端が坂本しのぶさん.支援者の方々たちとも一緒に記念撮影)