No.71 性別取扱いの特例法が持つ重大な問題点を考える


性別取扱いの特例法が持つ重大な問題点を考える 

 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下、特例法と記す)をどう評価するかについて、当事者の間はもとより、喧々諤々の議論を聞くことがある。ジェンダー学や女性学などを学ばれている方で、たまたまここのサイトに行きついた方のなかでも、特例法については耳にしたことがある方は多いのではないだろうか。
 特例法が、まだ法案段階だった頃、宮崎留美子は法案を支持するのかしないのかと問われることもあった。当時、私は、賛成も反対も言わないと、見解表明を保留してきた。理由は2つあった。
 ひとつは、法律の文面だけでは計り知れない「その法律が存在することによる影響」がどのようなことになるのか判断に迷うところがあり、軽々に判断できなかったことがある。
 ふたつめは、今回の特例法は直接の問題としては私には関係がない法律であったということがある。自分に関係がないとき、他者が、自己の幸福追求のために強く求めていることがらについて、自分自身にとってマイナスにならないか、もしくは、プラスでもマイナスでもない場合には、とくに反対する必要はないという気持ちもあって、静観しようと考えた。
 成立後、ある程度ときがたち、法律を実施するための規定などがわかってくると、問題点がかなり見えてくるようになってきた。私のサイトは、トランスジェンダー自身が開設しているサイトとしてはトップクラスのアクセス数をもっているホームページでもあるため、ある程度の影響力はもっているかもしれない。この時期に、私なりの意見を言うことも、何らかの意味があるかもしれないとの思いから、私見をのべてみたい。

 法律にある「現に子がいないこと(子なし要件)」の問題は、これまでにも多く議論されている。私は、ここでは、別の観点から、特例法の問題点を指摘したい。私が指摘する部分は、「子なし要件」以上に問題だと感じているのだが、当事者の間ではさほど問題視されていない。たぶん、性転換手術(性別適合手術)のガイドラインに則って手術にいたった場合には、私が指摘することがらがクローズアップされることがないからだと思う。しかし、本質はたいへんな問題をはらんでいる。

※(性別の取扱いの変更の審判)  特例法から
第3条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれかにも該当する者について、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
1 20歳以上であること。
2 現に婚姻をしていないこと。
3 現に子がいないこと。
←「子なし要件」とはこの部分を指す
4 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
5 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えている こと。

 心の問題を専門家(精神科医)が判定し性別の変更の可否を握るわけで、つまるところ、精神科医が性別を決定することにつながりかねないとの強い危惧を持っている。心が男であるか女であるかということを、どうして精神科医が判断できるのか。物理的に一元的に判定できないことがら(精神鑑定で、専門家によって判定がくいちがうのはそのいい例である)である精神面での判断においては、精神科医自身が持つ社会的なバイアスを通して判断されるわけであって、バイアスから中立に判断すること自体が不可能である。自分にはバイアスがないと考えていること自体も、そこには何らかのバイアスがあるということに自覚的であるべきだろう。
 掲示板などで、この問題を指摘したことがあったが、返ってきた反応として「A医師の判断が不都合であればB医師に判断してもらえばいいではないか.専門家であれば誰でもいいのだから」という内容があった。ことはそんな単純な話ではない。こんなに単純に考えるところに、本質を見ようとしない思考停止を感じてしまう。
 A医師であろうとB医師であろうと、心の問題を他者に判定してもらうということには何ら変わりはない。私は、そこのところにこそ問題があるといっているのだ。

 戸籍の性別変更を裁判所に申し出るときに、資格を有する2人以上の専門家によって「性同一性障害」であることの診断が必要だとされる。一見、なんでもなさそうな項目のように思えるが、このところは、従来までの思考内容と大きく異なっていると、私は思っている。
 性転換手術(性別適合手術)を受けるためには、ガイドラインによると、2人の精神科医による「性同一性障害」の診断を必要だとしている。法律は、この部分との整合性のための項目だというのかもしれないが、本質は大きく違う。
 ガイドラインは、患者をしばるものではなく、医師側の行為をしばる目的でつくられているという本質を見失ってはならない。ある当事者が、性同一性障害であるか否かということを、どうして他者が診断し認定できるのだろうか。自分の心がどうであるかを他者に認定してもらうほど、私たちは他人に人生を委ねているのだろうか。
 性転換手術は一度行えば元に戻すことができない不可逆の行為である。例えば、当人が「女性の体になりたい」という要求を持っていたとしても、それが一時の気の迷いだということはあるかもしれない。本人の要求で手術を行うわけだから責任は本人自身にあるということが筋であり、あくまでも本人の意思が優先されるべきかもしれないが、ことは不可逆な行為であり元には戻らないという大きな問題であるため、医師側がパターナリズムで「あなたの心を調べさせてもらいますよ.そうでないと責任を持って手術できません」と言ったとしても、それはやむをえないことだと私も思っている。不可逆の手術ゆえに、慎重には慎重を期すことを医師側が決めたとしても、それはもっともなことだとも思っている。つまり、医師側の行為をしばるガイドラインは、それがあることは大事なことなのだろうとも思う。
 しかし、そのことは、当人の心と体が、真にズレていて性同一性障害であるかどうかということとは別問題である。本当にどうであるかは他人にはわからない。精神科医でもわかりえない。もし「わかる」と考えたとしたら、その精神科医は傲慢そのものだと言わざるをえない。性同一性障害だと診断するのは、この人物であれば、一応、責任を持って手術まで進むことが医療側としても許容されるという、医療側の了解でしかありえない。決して、当事者である患者側のあり方やアイデンティティまでをも、医師が決めるという了解ではありえない。これが、医療と本人の意思との関わりを考えるときの本質だ。
 さて、性転換手術を行う当事者は、必ずしもガイドラインに則って行っているとはかぎらない。いやむしろ、ガイドラインに乗っていない形で行う人の方が多いともいえる。どういう形で手術を行うかは、当事者本人の選択の問題であり、日本の医療側があれこれという筋合いのものではない。ひょっとしたら、国内でヤミ(このような言い方はおかしいのだが)で手術した人もいるだろう。また、昔であればモロッコ、現在はタイで手術を行う人も多い。とくに、タイの性転換手術は世界のトップレベルの技術だと、タイの関係者自らが自負しているぐらいである。実際にも、性転換手術にかかわるタイの整形外科医が行う年間の件数は、日本のそれとは比べものにならないぐらいに多い。
 こうして、タイなどの外国で性転換(性別適合)を終えた当事者、いわゆる「海外組」は、必ずしも、日本国内において、2人以上の専門家によって「性同一性障害」との診断を受けたとはかぎらない。しかし現実には、手術を終え、「身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えている(特例法にある要件の条文)」になっているということになる。MTF(男性から女性)の場合、ふくらんだ胸を持ちヴァギナに近似した性器をすでに備えていることが考えられる。
 この場合、改めて、日本の専門家(精神科医)2人以上による性同一性障害との診断がなければ、戸籍の性別変更の申し出はできないというしくみらしい。さらには、法律を受けての下位の施行ルールでは、治療経過を示す書類も必要とされるというふうにも聞いている。国内で手術を受けていない場合、果たして、そういった書類を整えることができるのかどうか危惧されるが、もっと重要なことは、性同一性障害だとの認定を受けなければならないということにある。再度、確認しておくが、体はすでに転換されているのにである。
 2人以上の精神科医による性同一性障害であることの診断は、あくまでも、性転換手術のゴーサインを出すための医療側に課せられたしばりであって、すでに、性転換を終えている人に対して、どうして性同一性障害であるとの認定が必要になるのか。そこが、私は大問題であると思っている。
 性同一性障害であるという場合、例えば、もともとの体は男性であったにもかかわらず、心(ジェンダーアイデンティティ)が女性であり、そこにズレがあるということが必要になるだろう。体が男性であったかどうかは、インターセックスのケースをのぞけば、一応は一義的に確定できる。しかし、心がどうであるかについては、前述したように、判定する医師に社会的バイアスがかかっているわけで、もし「心は女性とは考えられない」となった場合には、体はすでに転換しているにもかかわらず、性同一性障害の診断が出ないということになり、戸籍の性別変更はできないことになってしまう。つまり、心の性を、第3者が判断するという結果を招き、この場合は、精神科医に戸籍の性別を左右する「権力」を委ねることになってしまう。「2人以上の精神科医の診断」が、性転換手術に進むための医療側のゴーサインというこれまでの了解を超えて、心の性別の判断を医師に委ねるという「他者による、心や生き方への介入」という結果を引き起こしてしまうとはいえないか。
 そもそも、「心が女」などということを誰が決めることができるのだろうか。体はすでに女性のかたちになっていて、それでいて、「あなたは心が女性だと確信しているとは思われないから、性同一性障害とはいえない」などという権利が精神科医にあるのだろうか。
 特例法の下位のルールとしての「医師の診断書の記載に係る厚生労働省令」がどうであるかの情報によると、「心理的に生物学的性別とは別の性別であるとの持続的な確信」を診断することになっている。体をすでに別の性別に変えているのに、なぜ、こういった心の診断までしなければならないのだろうか。心を医師に委ねてしまうのかと思ってしまう。この診断は、手術を行う前に医療側の慎重を期すために行うべきものであったはずだ。主客が転倒してしまっている。
 トランスセクシュアルのTさんは、「見た目も社会的な役割も男性であるのに、戸籍が女性のままであると、その方が社会的混乱を起こす」と言っておられた。ならば、海外組で手術をして、女性の体に近似するようになった人が、戸籍が男性のままであれば当然に社会的混乱を起こすこととなる。性同一性障害だから戸籍を変えるわけではない。社会的にも戸籍を変えた方が自然だから変更を求めるのだ。そのように言ってきたのではないだろうか。
 日本国内で、医療側が手術を行おうというとき、医療側が慎重にものごとをすすめていくために、自己規制としてガイドラインをつくり、そのなかの規制内容として「2人以上の精神科医による性同一性障害の診断」ということを盛り込むのは、それは、医療側の自主的な判断だ。患者側が「それは厳しすぎる」とクレームをいうことがあったとしても、どう自己規制するのは医療側の裁量の範疇かもしれない。しかし一方で、当事者側が、国内での手術に委ねるのではなく、自分の判断と責任によって、海外で手術を行うかどうかについても、これもまた自由な判断である。
 プロセスはどうであれ、いったん手術が行われ、「身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えている(特例法の条文から)」という判断を、外科医(精神科医ではない)などが下したならば、その者が性同一性障害であるかどうかという診断を行うこと自体が、きわめて問題あることだと考える。

 まとめの意味で再度言う。

 性転換手術を慎重に行いたいということで、日本国内の医療側の自己規制の問題として、性同一性障害を診断するのは、これは否定するものではない。手術にすすむために、2人以上の精神科医の診断を必要とするとしても、これを否定するものではない。しかし、あくまでも、医療側をしばる規制であって、ゆめゆめ、当事者(患者)側をしばるものではありえない。ガイドラインは医療側をしばるものであり当事者をしばるものではありえない。
 そして、どのようなプロセスであれ、いったん手術がなされ、「身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備え」た場合には、心の判定にまで踏み込むのは誤りである。性同一性障害の診断は外見などの物理学的な診断ではないわけで、心の判定に踏み込むことである。心の判定を医師に委ねることは大きな誤りであるし、医師に当人の生き方の判定を委ねる危険性をもつ法律は、やはり大きな問題をはらんでいるといえよう。
 心の判定を、自分が主体とならずに他者に委ねようとする思考は、今現在、「君が代」を起立して歌えと、処分をちらつかせて、心の問題を押しつけてこようとしている思考と、どこか底に流れるものが一致しているような気がしてならない。