No.97 ジェンダーフリーをめぐって〜誤解を解くために〜
※BGMは「日本教職員組合組合歌」です.・・・♪♪かがやく朝の雲染めて いまひるがえる自主の旗 正義と愛の指すところ 伸びゆく生命育くみて 世紀の教師われら行く われら われら われらの日教組♪♪・・・私も含めてですが、日教組の組合員でもこの歌を知っている人はほとんどいないと思います.このエッセイは日教組・教育新聞から素材をとっていますので、この機会に、日教組の組合員の方は、一度、聞いておかれるといいかと思います.
ジェンダーフリーをめぐって〜誤解を解くために〜 日教組・教育新聞に「『ジェンダー』が支える差別構造や格差社会の解消をめざして 男女共同参画社会の実現を!」というタイトルで、ジェンダーについてのあれこれの説明が載っていました。
私は、ここに書かれていることは、全くそのとおりだと思います。教員だけではなく、一般の人にもわかりやすく書かれていますので、ここに再掲したいと思います。
私のホームページを見ておられる方のなかには「日教組なんてとんでもない」「サヨクのばかどもだ」「教育をだめにした元凶」などと思っている方がいるかと思います。しかし、そんなふうに色眼鏡でみないで、まずは読んでみてください。読んでおかしいと思ったら、どこがどのようにおかしいのか論理的に思考してみてください。感情的に「日教組の言うことは嫌いだ」という発想は、排除の論理であるし、食わず嫌いにもつながります。まずは、虚心坦懐に読んでみてほしいと思います。なお、黒字部分が日教組の新聞からです。私の文章は赤字部分ですので、両者を混同はしないでください。
ジェンダーについては、トランスジェンダーである私は、10年ぐらい前から自分の問題として考え勉強してきました。自分から好んでそうなったわけではないのですが、男モードと女モードを行き来しなければならない環境にあるため、両方のジェンダーが本当によくみえてきます。また、性別に違和感をもつ人の問題も、最近では考えていかなければならないようになってきています。生徒のなかにも(そして教員にも)そういった人たちがいるため、こういった問題から無縁であることはできないと思います。
日教組・教育新聞のジェンダーに関する文章はとてもわかりやすいのですが、トランスジェンダーという立場からジェンダーを考えてきた者として補足しておきたいこともあります。
私からの補足部分は色を変えて書き込んでおきますので、それも併せてお読みください。
また、日教組の方、教員の方がお読みでしたら、私が補足した部分も、今後のジェンダーを考える際に参考にしていただければ幸いです。赤字の部分が私の記述部分です。黒字のところは日教組・教育新聞からの引用です。
【日教組・教育新聞 2005年10月1日号から】
生物学的な男・女という性差(SEX)に対して、「男や女はこうあるべき」といった社会的・文化的につくられた性差のことをいいます。
ジェンダーの視点で社会をみていくと、今まで当たり前だと思いこんでいたことの多くが、実は国家にとって都合よくつくられたものであることが分かってきます。
戦前の日本では、男は弱音を吐かずに国家や家族を支え、いざという時は命をも投げ出す生き方を、女はやさしく忍耐強く、男に従い、家事や育児・介護を一手に引き受ける生き方を求められました。女性には選挙権、財産権、親権などの基本的人権がなく、男性は女性や子どもを管理する一方で、年長者の男性や国家によって管理されました。そして、それを当たり前だと受け止める人を家庭や学校、社会が再生産することで、差別構造や格差社会が正当化され、軍国体制を支えていきました。多くの人は、人間性を奪われていたこの時代に戻りたいとは思わないでしょう。
戦後の日本国憲法では男女平等の理念のもと、法の下の平等(14条)、個人の尊厳と両性の平等(24条)が定められました。しかし、戦後60年を経た現在でも性差別は温存されています。それは、刷り込まれたジェンダーが人々の意識の中に根深く存在しているからです。 ジェンダーの視点は、男・女の二極で考えるのではなく、一人ひとりの価値や存在を尊重していくためのキーワードであり、憲法や教育基本法の理念、平和で平等な社会の実現に欠かせないものなのです。
ややもすると、ジェンダーの視点は誤解され、「女性=差別の被害者」「男性=差別の加害者」と単純化してとらえたり、女性の進出によって男性の権益が侵害されると考えたりと、男女の二項対立ととらえる人がいますが、それは違います。
ジェンダーは差別構造とつながっています。男性は生計を維持するために家庭を顧みず長時間働くことを求められ、その結果、倒産やリストラによって40・50歳代の男性が自殺や過労死に追いやられています。また、2005年版「男女共同参画白書」によると、共働き世帯は増えているものの、男性の育児参加時間は25分と極めて短く、統計を取り始めた1960年以来ほとんど変わっていません。男性の長時間労働と仕事中心の生活が男性の家庭生活への参画を奪い、家事を低く評価するジェンダーに基づく社会のあり方が男性から家事や育児・介護を遠ざけています。一方で、女性は仕事では今だ劣等とみなしているジェンダーがあるにもかかわらず、気配りや「性役割としての女らしさ」を求められます。それが、女性を性的対象とみるセクシュアル・ハラスメントにつながっていきます。
先日の内閣府の報告書でも、日本は他の先進国に比べ仕事と子育てが両立しにくい社会環境にあるという結果がでています。幸せを感じられない社会だともいえます。
ジェンダーは性差別だけでなく、命や生き方にまで大きな影響を与えているのです。一人ひとりの生き方や行動は個人が選ぶものであって、性別によってしばられるものであってはなりません。男女が対等な存在であると認識できれば、男女共同参画はすすみ、ドメスティック・バイオレンス(DV)やセクハラも減っていくでしょう。
「ジェンダー・フリーの思想は性差を否定し、わが国の伝統・文化を滅ぼす」「過激な性教育が学校現場でおこなわれている」など、曲解にもとづく性やジェンダー・フリーの教育に対する攻撃が政治的に行われるようになりました。これらは、戦前の家父長的な国家観と結びついた家族制度の維持や復活、ジェンダーに基づく差別構造や格差社会の維持を目的としています。その行きつく先には、基本的人権や男女の平等、個人の尊厳を謳った憲法・教育基本法の改悪が考えられます。憲法9条と24条があわせて語られる意味が分かると思います。
←(ギリシア、ミコノス島で撮影)私は男性として生まれました.でも、この姿でイタリアやギリシアを旅しています.「男なのにおかしい」ことなのですか.許されないことなのですか?ジェンダー・フリー攻撃者は、苦悩を抱えている人たちの心を、もう少しはわかってもらってもいいと思うのですけれどねえ
ジェンダー・フリーの思想はもともと性差を否定し中性になることをめざすものではありません。「男らしさ/女らしさ」をなくしてしまえというのはジェンダー・レスであって、ジェンダー・フリーとは全くちがいます。そして、私は、ジェンダー・レスには与しません。ところが、ジェンダー・フリーを攻撃する人たちは「ジェンダー・フリー教育は、教育の場で中性の人間をつくりだそうとしている」といったウソを意図的に言うのです。ウソも繰り返せば本当になるかのごとく言いつのります。
私は、日教組傘下の県教組などで、トランスジェンダーの問題を含めて講演する機会がありました。講演の前後に、県教組の主催責任者の方々と懇談会をもつこともありました。ほとんど、相手の方は女性でしたが、ジェンダー・フリーを「人間を中性にすること」と考えている人はいませんでした。
宮淑子さんという日教組教研集会のアドバイザーの方がいます。ジェンダー・フリーをしっかりと主張される方です。私はこの方と何度かお会いし話をする機会もありました。宮さんは、すてきな「女らしい」服も着られており、美しく化粧もなさっています。宮さんを見て「この人は中性だ」などと思う人はこれっぽっちもいないでしょう。どこからみても、すばらしく「女らしい」方なのです。もし、ジェンダー・フリーが中性をめざすというのであれば、このように「女らしい」雰囲気を漂わせることなどはナンセンスの極みでしょう。こういったことを、ジェンダー・フリーを攻撃する人たちは見ようとしないか、意図的に隠しています。
本来のジェンダー・フリーの考え方が、「女らしく」すること「男らしく」することを、一度たりとも否定したことはないはずです。そりゃなかには、ニセのジェンダー・フリー論者もいます。脳内だけで空回りして、生(なま)に生きている女性や男性の心を顧みず、口先だけのジェンダー・フリー論者が皆無だとは言いません。しかし、私は、そのような方とは一度もお会いしたことはありません。
もし、ジェンダー・フリーが中性をめざすものだとしたら、より「女らしく」化粧し服装をし振る舞いたい私などは、日教組のジェンダー・フリー論者の最大の敵ということになってしまいます。しかし現実には、ジェンダー・フリーを主張する女性教員(男性教員ももちろんですが)と私と、とくに敵対関係になったこともなく、実に共感をもっておつきあいしています。
それは、ジェンダー・フリーが、「らしさを否定する」ものではなく、「男らしさ/女らしさ」はこれこれのことだと国家や社会が決めて、ひとりひとりの男性/女性をそれに従わせようとすることへのNOであるからです。既存の「男らしさ/女らしさ」にしっくりして、結婚生活や仕事の場で、その方と接する相手の人もそのことに納得し幸福を感じていれば、その生き方をどうして否定しましょうか。「男は外で働き女は家庭を守る」ことに幸せを感じるカップルがいるとしたら、そのカップルの生き方を否定するなどありえません。しかし、小泉さんの言葉じゃないけど「人はいろいろ、人生もいろいろ」です。既存の「らしさ」にどうしてもなじめない人もけっこういます。また、既存の「らしさ」が、生徒の能力を、男だから/女だからと一方的にしばってきたのが、これまでの社会でした。
学校は、ひとりひとりの個性を十分にのばしていくところです。既存の「らしさ」が個人をしばるあり方は、学校教育からはなくさないといけません。これは決して、生徒を中性にすることとは全然ちがいます。ここのところを、悪意をもってねじ曲げているのが、ジェンダー・フリーへの攻撃者なのだと思います。
女子生徒に対して「やさしくしとやかであれ」というとき、活発に積極的に振る舞うことに自分らしさを感じる人もいます。そういった女子生徒に「あなたはおかしいよ」とでも教員が言えというのでしょうか。男子生徒へのしばりは、私自身が身をもって感じてきましたから、嫌というほど、「らしさの強制」が当人を苦しめることを痛感します。
私は男の子でしたから、泣かされて泣き泣き帰ってくると、父親は家に入れてくれず「やり返してこい」と怒っていました。それは、やり返せるものならばそうしたかったですよ。しかし、それができないのが私の個性であったのに、「男であれば泣くな、やり返せ」という「らしさの強制」は、どれだけ、当人の心を傷つけることでしょうか。もし私が、女性であるひとときをもつことができていなかったら、私の精神はおそらくは破裂していたのではないかと思ってしまいます。女性であるひとときをもつことで、「女性であれば甘えられ弱々しくてもいい」という既存の「らしさ」に逃げ込むことで、男らしさの強制の苦痛を緩和してきたともいえます。
←(タイのバンコクで撮影)私の横にいる2人は、生まれつきの体は男性.でも、自分が男性であることは苦痛であった.タイでは、性を変えた人たちもほとんど差別されることもなく社会に受け入れられている.タイにだって「男らしさ」「女らしさ」はちゃんとある.だけど、その「らしさ」からはずれた人でも差別されることは少ないという.
「男らしさ」は、男の子にスポーツができることを求めます。女の子に対してはそれほどのしばりはありません。スポーツが苦手で体育嫌いだった私は、高校時代、女子生徒が家庭科をやっているのをうらやましく思っていました。私は、家庭科をやりたかったのですが、当時は、そういうことは許してくれません。「家庭科は女子がやるもの」・・・・これはまさにジェンダーです。このジェンダーは、明らかに私に対しては苦痛に働きました。男の子だって、家庭科を好きなひとだっているはずです。なのに、男子だからというだけで家庭科がやれないのは、その男子生徒の幸福追求を奪っていることになりはしないでしょうか。憲法13条で定めている幸福追求権がないがしろにされていたともいえます。
ジェンダー・フリーへの攻撃者は、こういう私のような男の子に対して、「男は男らしくだ」「中性にはなるな」とでも言わんばかりに、ある決められた「らしさ」を強制しようとでもいうのでしょうか。であれば、私の幸福追求権はいったいどうなるのでしょう。
「男は男らしく」を強制しなくても、別に、家庭生活がどうこうなることはないと思います。私は、本来は「女性として」生きたかったのですが、そのときの時代の環境もあって、結婚し子どもを持つ「父親」になりました。望む「私らしさ」ではないかもしれませんが、いったん敷いてしまったレール(配偶者と子どもの存在を持ったこと)を走っているとき、自分だけの幸福のために他者へ苦悩を与えるというのもひとりよがりではないかと思い悩み、いろいろの経過がありましたが、「男ときどき女」というライフスタイルで、なんとか大きな不幸を招かないようにすることを決断して、今に至っています。これも私の選択です。私なりの「自分らしさ」です。
マーケットへの買い出しや夕食づくりは私の担当です。ときどきルーズにしていると、配偶者から「任務をちゃんと果たしなさいよ」と怒られたりもします。そんなこんなで怒られながらも家庭生活をすすめてきています。男らしさなどとは無縁の私だと思いますが、別に家庭が崩壊してはいません。戦争するのは嫌ですから、「国のために」兵士として戦地に行く「男の役割」はどうしても果たせないでしょうが、そもそも、戦争でたたかうことを「男の役割」だとすること自体が、私はおかしいと思っています。泣かされて帰ってきても、それもいいではないか・・・・そんな気持ちを持っている私は、日本国民ではないとでもいうのでしょうか。愛国心がないとでもいうのでしょうか。愛国心とは何かについても問い直していきたいと思いますが、ここでは論究しません。
(補足)日教組執行部がどのような見解を持っているのか、また、統一見解などあるのかないのかは知りませんが、私はいわゆる「美人コンテスト」が開かれることに反対しません.もし、教職員の組合員に対して、美人コンテストに反対することを情宣してくるようなことがあるとすれば、私は真っ向から反対します.ただし、私は、地方自治体などの公的機関が、主催であれ後援であれ、公金を使ってバックアップすることには反対です.民間団体が美人コンテストを開くことには反対の気持ちはありません.「女性は見られる側の性になっていて男性は見る側の性だ」という反論がありますが、女性の側も積極的に「見る性」をエンジョイしてもらって、男性のビューティコンテストを開催すればいいと思います.女性が経済力をつけていき、男性を侍らせる場面がでてくるにつれて、見る性としての立場も増えていくと思います.現に、男性のヌードショーを女性が喜んで見物し、紙幣をチップとして渡すということも生まれています。ニューハーフのお店に積極的に通うのは女性側が多いぐらいです(この場合、ニューハーフを同性としてみているのか異性としてみているのかという微妙な部分はありますが、それでも「見る性」になっているのは確かです).女性の美人コンテストに反対するというのではなく、女性側が経済力を男性と同様に持つようにすることこそが重要でしょう.ときと場合によって、見る性と見られる性が分かれていてもいいではないですか.ジェンダー・フリーは、見る・見られるが、つねに固定的に男女に割り振られていることに異議を唱える考え方だと思います.一方、自分で勝ち取った能力ではなく、「美」という天性の部分でコンテストするのはおかしいという議論もあります.しかし、私たち教員は、日頃から、数学や英語のコンテストをやっているではないですか.数学や英語の能力は本人の努力によるものだ・・・・本当にそう言いきれますか? 一方、現在のビューティ技術の下では、「美」であっても、本人の努力による部分がけっこう大きなウェートを占めつつある気がします.学力も「美」も、本人の生まれつきの部分もあれば、後天的に、本人が努力して勝ち得た部分もある点では一緒です.テストで順位をつけることを否定しないかぎり、美人コンテストで順位をつけることに反対する論理は出てこないと思います.テストの順位づけというコンテストは公費でやっているわけですから、その意味では、地方自治体などが公費を使って美人コンテストをやってもよいという論理にもなります.もっともですが、現在の文脈では、この場合は、女性にかぎっての美人コンテストになってしまうおそれがあるため、現時点で「公費による美人コンテスト」を支持するのは危険だと判断します.学力コンテストは男性も女性もミックスで競うわけですから、このこととはやはりちがうと思います.将来、男性も女性もトランスジェンダーであっても、ひとつのコンテストで「美」を競うようになるとすれば、公費によるコンテストでもかまわないと思いますが、「美の基準」では、男性と女性とをひとつのモノサシで測れるかどうかという問題が残ります.ジェンダーはフリーになりえても、生物学的な性であるセックスはフリーにはなりえません.男性/女性の生物学的な差は、今とはちがってくることがありえても、一緒にはなりえません.ジェンダーとセックス、論理はしっかりと峻別したいものです.
自民党が四月に立ち上げた「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」のHPでは、保護者の不安をあおるような曲解による事例を示し、アンケートや保護者に教育課程や授業を調査するよう呼びかけています。私たちは平和や平等につながるジェンダーの視点を社会に広げることを考えています。
表現の自由と称して、誤ったり偏ったりしたおびただしい性情報や性描写が子どもの目に触れることに対しては、国として適切な対策がとられていないにもかかわらず、エイズ等の性感染症が増える中、それぞれの教員が性教育の必要性を考え実践している教材や教具に対しては過敏な反応をし、授業を監視する動きもあります。「戦争のできる国」をめざすためには、国民の「いのち」「からだ」「こころ」を管理することが必要であり、性教育への攻撃は一人ひとりの自己決定を許さないとする意図が明確です。
7月28日、政府の「男女共同参画基本計画」の見直しにむけた基本的な考えが答申されました。中間整理には六千件以上もの意見がよせられ、男女共同参画のより一層の推進を望む意見多かったにも関わらず、国際的認識になっている「ジェンダー」の表現まで引き続き調査するとされました。今後の動きを注視していく必要があります。
←(ギリシア、ミコノス島のミコノスタウンで撮影)イタリアとオーストリアからやってきたということだった.この人たちの性自認を尋ねることはなかったが、いろいろなあり方があってもいいと思う
扶桑社という出版社があります。「新しい歴史教科書をつくる会」が執筆した中学校・歴史教科書の発行元です。この会社がおもしろい(別におもしろくはないが)本を出しました。それは『ブレンダと呼ばれた少年』(ジョン・コラピント著)というタイトルの本です。もともとは無名舎という出版社から出されていたのですが、こちらの方は絶版になりました。その後、最近になって、扶桑社からこの本が出版されたという経過です。
この本に書かれていることは、ジェンダーを否定する論拠になると思ったフシがあります。まったく馬鹿げたことなのですが、性別違和感とかトランスジェンダーのことをよく知らない普通の人たちを、うまく丸め込めると思ったのでしょうか。
もともとは男の子として産まれたのですが、手術の失敗から男性器が腐ってしまったのです。そこで、両親は、当時の著名な性科学者であったジョン・マネーのすすめにしたがって、男性器を女性器に変え、女の子として育てることにしたというわけです。ジョン・マネーの著書には『性の署名』(人文書院)があります。マネーは、3歳までに、自分が女性であるか男性であるかの意識が決まると言い、生誕後、女の子として育てれば、自分は女性だと考えるようになるという学説をたてました。生まれてからの育て方によって、女性にも男性にもなりうるということから、フェミニズムの側にとっては、マネーの学説は、「社会がジェンダーを生み出す」という定理の論拠となりました。
ブレンダと呼ばれて女の子として育てられたのですが、年頃になってから、どうしても自分が女性だとは思えずに、結局は手術をして(再度の性転換手術ということになる)、現在は男性として生きているという調査結果を、本として著したものが『ブレンダと呼ばれた少年』なのです。
ジョン・マネーの学説を否定したものとして一部の人たちからもてはやされ、ブレンダの事例は、性の意識は生まれつき決まっているのだという論拠になっていきました。この事例は、ジェンダーが生誕後の環境によって決まるというフェミニストの論理を崩したというわけです。
私は、こういった主張には2つの大きな錯誤があると断じます。
一つめは、「ジェンダー」と「ジェンダーアイデンティティ」とを混同しているということ。
自分が女性であるとか男性であるという意識を性自認と言い、これを英語ではジェンダーアイデンティティと言っています。性自認については、脳の特定部位に男性と女性とでちがいがあり、これは生まれつき決まっているという学説もそれなりの科学性があります。妊娠中、体の男性化を促すホルモンと、脳の性自認を決めるホルモンとで、その分泌時期がちがい、ここにズレがある場合に性同一性障害になり、体は男性でも、意識は女性である(あるいは女性でありたい)と思う性別違和感を抱くとされています。性同一性障害は生まれつきのものだというわけです。性自認は生まれつきなので、産まれたあとに男らしさ・女らしさが決まっていくものではないというわけです。
ここに混同があります。
自分が女性であるという意識と「女性らしさ」とは区別されるものであることを無視しています。どう考えても、「女性は家事を受け持つ」ということが生まれつき決まっているわけはありません。「女性は消極的」だということが生まれつき決まっているわけでもありません。女の子が赤い色を好むなどということも決まっているわけではないでしょう。逆に、男の子は積極的であれとか、男の子は泣かないものだということが生まれつき決まっているわけではありますまい。こういった「らしさ」のことをジェンダーというわけですが、これは、「自分が女性である/男性である」というジェンダーアイデンティティとはちがう概念です。
英語だと、両方とも「ジェンダー」という語が入っていますから混同されてしまうのですが、「社会的に生み出された性」「らしさ」と、「性自認」というふうに日本語で書いた言葉が広がれば、混同は防げるのかもしれません。
2つめは、『ブレンダと呼ばれた少年』で否定されたのは、「性自認はかならず生誕後の育て方によってのみ決定される」という内容でしかないということです。確かに、ブレンダについては、どうも、性自認は生まれつきに決まっていたのではないかと考えるのが順当かもしれませんが、性別違和感をもっている人すべてが、生まれつきに性自認のズレが起こっていたということをしょうめいしたわけではないということです。
数学に詳しい人であれば、反証が1つでもあれば、定理は否定できるものの、さりとて、反証で言われたことを新たな定理にすることはできないということを納得すると思います。逆のことを定理にするためには、その定理がすべてについて成り立つということを証明しなければなりません。性別違和感のケースでいうならば、すべての性別違和感を持つ人は、生物学的に、脳の特定部位が、多数の男性/女性とはちがっているということを証明しなければなりません。また、生誕後に逆の性で育てたとしても、必ず失敗するということを証明しなければなりません。
人間の意識などというものは、生得的か後天的か、現在の科学でそうそうに決められることではないはずです。
論理で考えると、とてもおかしなことであるにもかかわらず、『ブレンダと呼ばれた少年』の一例で、性自認が後天的に決まるということをすべて覆したように主張する、ジェンダー・フリーを攻撃する人たちの論理は、およそ知的なものとはいえないということを断言したいと思います。
いえるのは、ブレンダの性自認は生得的であったということであって、他の子どもたちの性自認についてまでも、産まれたあとつくられていったということを覆す証明はなんらなされていないということです。1つの反証事例があったとして、それでもって、逆の定理を導き出すという、科学的な論理としては全くおかしいことを平気でやっているのが、攻撃者たちです。
彼らには、知的に論理的に議論していこうという姿勢が全くみられません。ただ、「あれはおかしい」という不信感をあおって、なんら証明されていない自分たちの論理を、あたかも正しいかのごとく主張する姿勢でしかありません。およそ、議論するに値する内容とは思えないのですが、ひとつの反証でもって新たな定理を主張するオカシサがあったとしても、それを繰り返し大声でいうことによって、一般の人を騙せる危険性があります。あのヒトラーは言いました。「ウソも100回繰り返せば本当になる」「大衆は女性と同じだから理性ではなく感情に訴えるべき(なんと女性蔑視なのでしょうか)」・・・・まさに、ジェンダー・フリー攻撃者の所業と同じではありませんか。