No.107 輝きが失せたヤンキー(義家弘介)先生
ヤンキー先生、義家弘介先生というのが本名のようだ。この先生は、私立北星余市高校で「ヤンキー」な生徒たちとがっぷりとくんで、生徒たちを立ち直らせていこうとする姿は、一介のフツーの教師にとっては輝きですらあった。
今回、教育再生会議の委員になられたわけだが、たった数年前の言説とまるっきりちがうことを言っているみたいだ。アレレ、教員って、そんなに変節していいものなの?
私の疑問ははじまった。いろいろと調べてみた。うーーん、胡散臭い。
テレビドラマのモデルともなり、また、現在の学校のなかで助けをもとめる生徒たちの心ひだに耳を傾ける姿はカッコよかった。一教師として毎日を送っている私は、義家先生のようなスーパーマンにはなれないものの、その姿勢には、そういう姿勢でありたいという教員だったら多くの人が持つ「心の良心」から、拍手を送ってもいた。
しかし、ここにきて、結局はそれも化けの皮だったのかと思ったり、「この人って、ものごとの本質が、実はよくわかっていないのではないか」というような、冷めた気分にさせられている。
もちろん、なかなか多くの普通の教師にはまねができない熱意と生徒への感性を、ぜひ、再び現場にもどって、いろんな圧力や日々の雑事でも悪戦苦闘しながら、一教師として生徒に向かいあっていかれることで還元してほしいと願う。日常の細々とした雑事もかぶりながらも普通の教師を超える何かがあるときにこそ、その人の教師性が評価されるのだと思う。生徒と向きあう学校の現場を離れて「偉そうなこと」を言ったとしても、それは口先だけのキレイゴトにしかすぎないと思う。71年生まれだそうだから、まだ35歳。若手の熱意ある教師の年頃だ。現場の教師歴は6年だとか。まだまだ未熟者の経験年数だが、一方ではそれだけに新鮮な感性が輝いている頃だろう。ぜひ、すばらしい感性を、第一線で発揮してもらってこそ、ヤンキー先生の輝きがいっそう増すのではないだろうか。
さて、なぜ、ヤンキー先生に失望し、化けの皮をかぶっていたのではないかと思ったのはつぎのことが書かれていたからだ。
今回、安倍内閣の肝いりで誕生した「教育再生会議」の担当室長になられた。安倍内閣がどういう本質をもったものであるかという議論をここでしようとは思わない。生徒と向きあうこともない現在の横浜市での教育委員より、現場でこそ、ヤンキー先生の本領が発揮できると思うのだが、教育委員だということもあって教育再生会議のメンバーに選ばれたのかもしれない。そのことを私は批判するつもりはない。疑問を感じたのは、彼に、朝日新聞と毎日新聞がインタビューしたときの、その回答内容を読んだからだ。
いじめの問題を喫緊の課題として考えていくという彼の姿勢には大賛成だ。私を含めて、いじめが根絶できていない学校現場には、たいへんに心が痛むものがある。教員がいじめを誘発する発言をしていたのみならず、「(当該生徒を)からかいやすかった」という教員がいたという事実には、深く考え込んでしまったものだった。
私も、まったく普通の教員だ。スーパーマン教員とはほど遠い。クラスにあるいじめの状況に気づかなかったということはありえたかもしれないし、今後もないとは言い切れない。いじめは、教員の目に見えにくい地下にもぐったところで行われていることが多いので、「わからなかった」ということは往々にして起きてくる。そのことで自分をも戒める。しかし、自分もいじめに乗っかかって、特定の生徒をからかったり、身体の特徴的なことで笑いをとったりなど、そういうことは絶対にやってはならないという「座右の銘」は持っているつもりだ。そして、いじめの存在に気づいたときには、いじめる側が100%悪いという立場にたって、いじめられている生徒をなんとしてでも救ってやりたいとも思う。
しかし、インタビューに答えたヤンキー先生(義家氏)の発言を読むかぎりは、この人が誠実な教員だったのかという疑問がわき、また、政治経済を担当する教員だったらしいが(私と担当科目が同じ)いったい政経の教員としての知識は本当にあるのかとも思うようになってきた。朝日新聞(2006年10月17日)を見てみよう。
−−イラクの人質事件では、自衛隊撤退を求める署名をしました。
校長に頼まれたから。私も当然、(人質を)助けないといけないと思った。自己責任論が出た時かわいそうだと思った。ただ、生徒が(イラクに)行くと言ったら、絶対にダメだと言う。
自衛隊をイラクに派遣したことの是非はここでは論じない。問題は「校長に頼まれたから」という、このひと言だ。
いろいろな課題での署名は、私も何度もやったことがある。当たり前のことだが、自分が署名の主催者でないかぎりは、署名というのは「やってくれませんか」と頼まれて行うものである。当然すぎるプロセスだ。署名したことについてあとで質問を受けた場合、私であれば「校長に頼まれたから」などの言葉を言うことはまずありえない。「自分が、それが正しいことだと考えたからだ」と答える。考え方に変更が出てきたときには、「当時はこれこれと考えていたが、その後、考え方が変わり、現在はこのように考えている」というふうに答えるだろう。少なくとも、誰それから頼まれたから・・・・などの言葉を言うことはない。義家氏は「私も当然、・・・・思った」と続けているので、ここでの発言を「ひどい発言だ」とまでは判断しないが、「頼まれたから」は余計だ。いいわけがましく聞こえてしまう。普通だったらこの発言を言うことはないはずなのに、それでも出てしまっていることに、私は「言い訳しているのではないか」という疑念を持ってしまったのだ。
同じ朝日新聞のインタビューのつぎのところは、政経担当教員としての資質すら疑ってしまった。
−−国旗・国歌法は。
公立校に勤務していたら、順守します。キリスト教の学校で、(教師が)「私は仏教徒だから礼拝に生徒を出しません」ということがまかり通れば教育現場はメチャクチャになってしまう。
さらに、毎日新聞のインタビュー記事では、次のように語っていた。(2006年10月19日朝刊)
−−「愛国心」教育をどう考えますか。
◆この国を愛せずに、どうやって国際人になれるのか。公務員であり校則順守を指導している教員が(国旗掲揚、国歌斉唱を定めた)学習指導要領に従うのは当然だ。
おいおい、ちょっと、この人、国旗・国歌にまつわることで、問題の所在がどこにあるかということをわかっているのかなあと疑ってしまった。他の教科の教員であれば、まあしかたがないかとも思うが、「あなたは政経の教員だろ」と文句のひとつも言いたくなる認識の浅さだ。
国旗・国歌のことで問題となっている核心は、卒業式などで、自己の思想・良心からいって歌うことは苦しいという人に対して、そういった思想・良心の自由を保障している憲法19条とのかかわりについてのことのはずだ。憲法の解釈では、19条は、その人の思想・良心という心の問題にとどまるかぎりは絶対不可侵の権利だという「内心の自由」とされ、21条で規定されている言論や表現の自由については、それは内心にとどまらず外見的な自由権になるために、他者の人権を侵さないかぎりにおいてという「公共の福祉」による制限がかかってくるとされている。
義家氏が例示した「私は仏教徒だから礼拝に生徒を出しません」というのは、自己の思想・良心を他者に「押しつけている」ということになり、内心の自由で解される行動ではない。国旗・国歌での現在の問題の所在が「憲法で保障された思想・良心の自由をしっかりと認めきっていく立場に立つか否か」ということであり、他者への働きかけをともなう行動についてのあれこれは議論の核心ではない。国旗・国歌の強制に反対する人たちの主張は、まさに「内心の自由」に関わる部分なのである。思想・良心という内心についてまで押しつけられることをよしとするのか否かというところにある。
だから、卒業式のことでいうと、国旗・国歌に反対する教員が、厳粛な式の場で「国旗・国歌ハンターーイ」と叫ぶことまでを受け入れろと言っているのではない。この態様は21条でいう言論・表現の自由のことであり、これは「公共の福祉」という一定の制限を受ける。私が言っているのはつぎのことなのだ。
反対する教員が、自己の思想・良心を他者に押しつけないかぎりにおいて、そして、「式」という場を壊さないかぎりにおいて、その人の内心とまさに隣接する発露の行為を受け入れていくことは、憲法19条で保障された権利にあたるのではないか、ということなのだ。わかりやすく言うとこうだ。国歌斉唱のときに、反対するその人が、式にほとんど影響を与えないかぎりにおいて、したがって、他者に影響を与える言論・表現ではなく、自己の内心の密かな発露として、静かにそっと座って歌わないというような、そういう内心の自由と密接不可分の行為を、19条で定められた思想・良心の自由として認めていくべきだ、という部分にある。
都立高教員たちが東京都教育委員会を相手取って起こした裁判で、東京地方裁判所が下した判決内容も、まさにその部分のことを言っている。仏教徒という自分の宗教思想があるからといって、生徒を礼拝に出さないというような「他者をしばる行動」についてまで、それは正しいことだなどとは少しも言っていないということ。この論理を義家氏はおわかりになっているのだろうか。
ヤンキー先生として現場で生徒に取り組んでいる立場であれば、「東京地裁の判決をしっかりと読んでおくべきだ」とまでは言わないが、少なくとも教育委員であり、今度は、国家の教育を左右する教育再生会議の担当室長になられたわけだから、せめて、国旗・国歌にかかわる裁判所判決ぐらいは知識として持っておいてもらいたいし、またそれは当然の資質ではないだろうか。
※ここでいう「キリスト教の学校」とか「礼拝」とかいうことがらは、私立の学校であることを前提として書いている。もし、それが公立だとしたら、礼拝があること自体が憲法違反であるわけだから、もしそんなことが行われようものならば、教員は体を張ってでも、まさに、教育現場をメチャクチャにしてでも止めなければならないことは言うまでもない。義家氏も当然のこととして私立学校を念頭において書いておられると思うので、ここの注釈は駄文になるだろうが、いちおう念のために記しておく。
『世界』の資料は野牧雅子さんのホームページからの引用です →
ところで、いいですか、驚かれなさるな。つい2年ちょっと前、2004年4月号の『世界』(岩波書店)という雑誌に、このヤンキー先生が書かれていた文章を紹介しよう。この号で、『世界』誌は日の丸・君が代の特集をしていた。このエッセイを読まれている方はご存じの方もたくさんいらっしゃると思うが、岩波の『世界』という雑誌は、リベラルな立場を代表する雑誌であり、日の丸・君が代の強制にしっかりと反対の論陣を張る側だ。『正論』や『諸君』などの雑誌と対局にある。保守主義の人たちからは、「朝日・岩波文化人」などと揶揄されることもあるぐらいのリベラルな立場を代表する雑誌だ。
この雑誌で、日の丸・君が代問題の特集のひとつとして、「なあ、みんな、学校は好きか?」というタイトルで文章を書いておられる。そのなかで、右の写真の部分で、まさに彼が書いていた日の丸・君が代問題への、その当時の彼の見解が明確に示されている。なんと、これが義家氏の文章なのだということ。
この部分については、私はなにも言いたいことはない。なかなかいい。
ところが、今はどうだ。朝日新聞や毎日新聞でのインタビュー記事のごとく、まるっきり反対の立場にたたれているかのようだ。
ときの推移とともに、意見が変わることを「悪い」というつもりはない。人は考え方が変わることはありうる。しかしそのときには、過去の私の考え方はこれこれの原因でまちがっていたというような反省の言を言うべきだろう。そうでなければ、当時のヤンキー先生の言説を「なるほど、すばらしい」と受けとめた人たちに申し訳が立たないではないか。
過去の言動に口をぬぐって素知らぬふりをすることを、人は「変節者」という。「ヤンキー先生=変節者」だったとしたら、この先生によって救われた多くの生徒たちは浮かばれない。そして、教育者が変節者であることは、生徒を導く側として、もっとも恥ずべきことなのだと思う。
この疑問に、ヤンキー先生は、ぜひ答えてもらいたい。それが、教育再生会議に入られた委員としてのつとめだとも思うがどうだろうか。少なくとも、変節者から、教育再生を言ってもらいたくはない。まずは、自分が「再生」されることを優先してほしいとすら思う。