作家・松本侑子さんのホームページと

相互リンクしました

 松本さんのホームページでの、何故、女装者に関心があるのかという主張に、私の考え方と通ずる部分があるため、特別に項目を設け、ここで紹介し、同時にリンクを張ることにいたしました。
 松本侑子さんのホームページの項目のひとつ「女装の館カトレア」の中から私のホームページへもリンクされており、著名な作家先生のホームページからリンクされたことに謝意を表します。
 左の松本さんの写真をクリックするとリンクされます。

 松本侑子さんは、単行本はもとより文庫本も含めて数多くの著書がある作家の方です。普通の書店で文庫本コーナーに行けば、すぐにでも数冊は探し出すことができるほどの著書量になっています。出版されている本については、松本さんのホームページを参照して下さい。
 そのなかから私も数冊読んでみましたが、フェミニズムに関することにとどまらず、政治や経済に関することでの「ものの見方」についても、私と近い部分があり、親近感を感じている作家のひとりです。 

 囲みの部分は、松本さんのホームページの項目のひとつ「女装の館カトレア」からの引用です。ちょっと長いですが引用します。

★女装の館カトレアを開設した理由

 私は華やかな服やキモノなど装飾的な服が好き、という個人的な趣味もありますが、根本は、フェミニズムの観点から、「女を装うとは何か?」と問い続けてきたことから、この女装写真ギャラリーは生まれました。
 今では、女装だけでなく、「男装、つまり男が男らしさを装うとは何か」という男性性の意味も考えています。
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★女装とは何か

 かつて、「女だけがする、女だけがすべきもの」と思われてきた服装をすることです。しかし今では、女装と、それをする人の性別は、基本的には関係ありません。現代では、男も女も女装をします。  以前は、女装と言えば男がするものと決まっていましたが、現代では、女性も女装をしています。なぜなら、現代女性は「女装」だけでなく、ふだんは「男装」もしているからです。
 たとえば、化粧をしない、ズボンをはく、髪が短い、中性的またはかつては男言葉と理解されていた言葉を話す、などです。いずれも、過去は「男装」と理解されてきた服と仕草の装いです。
 しかし女性は、何か目的があるとき、「女装」をします。たとえば、髪を伸ばす、カールさせる、スカートをはいて足を出す、化粧をする、アクセサリーをつける、ヒールのある靴をはく、などです。
 現代女性の多くは、「男装」と「女装」をうまく使い分けています。暑い日はスカートにする、寒い冬の日はスボンをはく。
 改まって外に出るときは化粧をしてスカートにハイヒール、女言葉で話す、身振りも女っぽく。しかし家でくつろぐときは素顔にジャージー、中性的な言葉で話す、身振りもラフに、というように。
 女性には、服装選択の自由が保障されています。
 自由な服、髪型を、個々人の好みの応じて選ぶことが、文化として認められ、保証されています。しかし、これは戦後、女性が勝ち取った自由です。
 かつて、今世紀初頭までは、短い髪をしてズボンをはく女性は「女らしくない」「ふしだら」「良家の娘、婦人ではない」「変態」「犯罪に関係がある(スパイなど)」として糾弾されました。
 しかし、第一次、第二次の二つの戦争を経て、女性は「男装」と「女装」を使い分ける自由、つまり服装選択の自由を手に入れました。
 今では、「男装」という言葉は、一般的には聞かれなくなっています。

 女は、服装を自由に選べるようになってから、行動の自由、生き方の自由も手に入れました。
 服の自由は、生き方の自由に関わっているのです。
 では、男の装いと男装の関係はどうでしょうか‥‥。

★男装とは何か

  かつて、「男だけがする、男だけがすべきもの」と思われていた服装をすることです。一般的なイメージとしては、次です。
 ハード(服飾)としては、短髪、ズボン、暗い色合いのスーツ、化粧をしない、ヒールのない靴を履く、アクセサリーはつけない、といった ソフト(仕草など)としては身振り、動作、言葉遣いなどを「男性的」なものにする、というイメージです。
 今では、多くの男性が、「男装」をするもの、とされています。
 女性は、時と場所によって「女装」と「男装」を使い分けているのに対し、男性は、「男装」しか認められていません。
 もし男性が「男装」の規範(これは時代の文化によって定められる)から外れた装いをすると、「男らしくない」「変態」「犯罪に関係がある(下着泥棒など)」と誤解され、「女装者」「変態」「オカマ」と、批判されます。
 この状況は、今世紀初頭まで、女が男装をしたときに投げつけられた非難と、まったく同じです。
 男が、服装選択の自由を手にすることによって、「男らしさ」から自分を解放し、自分らしい装いをするようになるかどうか、新世紀の変化に注目したいと思います。

 男装/女装において、男性と女性とでは非対称であるとの松本さんの分析は、用語の使い方こそちがっていますが、私も同じようなことを話していたため、興味深く読ませていただきました。
 私の言葉でいうと、「男性には女装というジャンルがあるが、女性には男装というジャンルは存在しない」ということ。松本さんの書かれていることと一見逆のことを言っているように見えますが、実は同じことです。
 女性が「男っぽい」外見を装うときは、「ボーイッシュ」とか「マニッシュ」なファッションと呼ばれ、ファッションのひとつとして日常的に「堂々と」装われています。ことさらに「男装」とは言いません。だから、女性には男装というジャンルがないということなのです。一方、男性が「女っぽい」外見を装うのは日常的ではなく「陰に隠れて」装ったりしなければなりません。そのために「女装」というジャンルが存在します。この面で、男性と女性は非対称的なのです。そしてこの非対称は、男性側が、男性優位社会を享受している反面、一方では「息苦しさ」「不自由さ」にもつながることだと思っています。 

 女装する仲間の中には、性にとらわれず人としての「生き方の自由」を求めるのではなく、むしろ逆に、「女らしいありようとはこれこれのことだ」と固定的な「女らしさ」を肯定し、日頃のストレス解消として、男性としての性を楽しむバリエーションのひとつとしての女装ということが少なくありません。
 女装するからといって、決して「男らしさ」「女らしさ」から自由である(ジェンダーフリー)社会を欲するとは限らない、ひょっとすると、一般的な男性よりかえって「〜らしさ」を求めているような気もしている昨今です。そして、女装者の仲間に「ジェンダーフリー」を説いても、なかなかすんなりとは受け入れてもらえないということに気づきました。
 「〜らしさ」からの解放...女性の方は比較的多くの方が受け入れてくれます。しかし、男性に受け入れてもらうのにはちょっとしたしんどさがあるし、女装者へはかえって受け入れてもらいにくいというもどかしさもあります。

 私は「フェミニズム」を基本的には支持します。それは、男性自身も、固定的な「男らしさ」から解放され、自由な生き方を選択できる社会になることにプラスになるという契機を含んでいると思っているからです。フェミニズムは、一方では、男性自身の問題でもあるとも思っています。
 とはいえ、岩波書店から出ている「日本のフェミニズム」の別巻として「男性学」という巻がありますが、ここでの男性著者のような立場をとる人は、男性陣のなかではまだまだ少数です。

 「女は、服装を自由に選べるようになってから、行動の自由、生き方の自由も手に入れました」と、松本さんは書かれています。その通りだと私も思いますが、しかし直線的に「生き方の自由」を謳歌できる社会になっていくかというと、かなりの紆余曲折があるとも思っています。
 人ひとりひとりの自由をより発展させていく方向だけではなく、それに逆行する懸念も感じます。「国旗・国歌法」の制定は、その懸念のひとつです。
 国旗・国歌を強制するという文言こそ法律には書き込まれませんでしたが、実際生活の局面で、国旗・国歌を肯定しているマジョリティとはちがった生き方の価値観をもっている人をあぶり出し排除するように運用されるとしたらちょっと怖いかな、という懸念がどうしても残ります。
 「服装を自由に選べる」「〜らしさからの自由」...これらのことと、国旗・国歌法とは一見なんのかかわりもなさそうですが、生き方の自由という視点で見た場合、この両者はしっかりと関係ある問題だと思われます。
 マジョリティの人たちのあり方を固定的な「らしさ」として、マイナーな人たちに押しつけてくる...これは、日の丸・君が代を国旗国歌として肯定する多数の側が、そのように考えないマイナーな人たちに対して、「おまえたちは日本人ではない、非国民だ」と攻撃し国旗国歌を押しつけてくるようなことがあるとしたら、その底流は同じではないのかと思えてしまうのです。